ジャマイカにおけるマリファナ規制の歴史(1/4)
■はじめに
カリブ海に浮かぶ美しい小国ージャマイカ。国民の9割が黒人であり、肌の色が社会的地位に関係する「カラーカースト制」がいまだに色濃く残るといわれている。このジャマイカにおけるマリファナ(大麻)規制の歴史を紹介するのは、次の二つの理由からである。
第一は、ジャマイカは政府による大麻の厳罰政策が世界でももっとも長く続いた国の一つであるが、その規制が医療や公衆衛生といったレベルの議論ではなく、もっぱら政治的な理由によって実施されてきたよくあるケースの一つだからである。言葉を変えれば、ジャマイカのマリファナ規制の歴史は、合理的説明や反証の可能性を許さない政治的決定に基づいて実施された典型例なのである。
第ニは、2015年に改正危険薬物法(The Dangerous Drugs Act)が施行されたことである。これにより、従来の厳格な懲罰的規制が非刑罰化政策に劇的に変わり、マリファナの医療目的での利用とともに宗教的利用、つまりマリファナの文化的重要性が認められたのである。
マリファナの宗教的利用は、薬物に関する基本的な国際条約である〈麻薬単一条約〉の枠組みを一歩踏み出したものとして、今後他国に大きな影響を与えることが予想される。
■ジャマイカにおけるマリファナ(ガンジャ)の起源
アメリカ大陸へ流れ着いたコロンブスは、2度目の航海でジャマイカに上陸した。1494年のことだった。これが、強国に翻弄されるその後のジャマイカの悲惨な歴史の始まりである。1509年にスペインの植民地となり、1655年まで続いた。
スペイン人はこの地にサトウキビのプランテーションを建設し、先住民を奴隷のように酷使した。また先住民にはスペイン人が持ち込んだ細菌に対する免疫力もなかったため、彼らはやがて絶滅してしまう。そこでスペイン人たちは西アフリカから黒人奴隷を連れてくることによって、労働力を補充したのである。
その後スペインがイギリスとの戦いに負け、1670年のマドリード条約によって、ジャマイカは今度は正式にイギリスの植民地となり、1962年の独立まで大英帝国の中でもっとも長く植民地支配を受けた国となった
1838年に奴隷制度が廃止されると、自由になった多くの黒人奴隷はプランテーションを離れて山間部で暮らすようになった。プランテーションでは新たにロープや布などの原料にするために大麻草の栽培が計画された。イギリスは、多くのインド人労働者を移民として連れてきたが、彼らが短期間に黒人労働者たちにマリファナ(大麻)のすべてを教え、マリファナは瞬く間に黒人たちの間に広がった(ジャマイカではマリファナのことを「ガンジャ」(ganja) と呼ぶが、これはインドでの大麻の呼名である)。しかし、大麻草の計画的栽培はすぐに頓挫し、大麻草は野生化した。これがジャマイカにおけるマリファナ問題の始まりだといわれている。
- ジャマイカにおけるマリファナの起源については、もう一つの可能性がある。大麻を最初にジャマイカ社会に持ち込んだのは西アフリカから連れてこられた黒人奴隷であり、すでに彼らには大麻の一般的な習慣があり、それはアフリカから何世代にもわたって続いていたという説である。現在でもアフリカ由来の宗教的慣習がジャマイカに存在し、アフロ・ジャマイカ文化集団が維持しているクミナ(kumina)と呼ばれる宗教的色彩の濃い民族儀式などが残っている(これがレゲエに影響を与えたともいわれている)。
ジャマイカは大麻草栽培に最適な気候で、毎年2回収穫が可能だ。とくに狭い丘陵地帯や小作で生活を維持していた黒人たちにとっても、拡散した大麻草は理想的な作物だった。何千もの農家が自分たちのために大麻草を栽培し、余った大麻草を販売するという、今日まで続く農業パターンが始まったのである。(続)