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栄転が一転、新天地で悲惨なことに…「残念すぎる転封」で涙を呑んだ大名3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛は、豊前で一揆を起こされ涙を呑んだ。(提供:アフロ)

 3月から4月にかけては、入学、就職、転職、転勤などの節目である、希望に胸を膨らませている人も多いだろう。しかし、「新天地に行ってみたらビックリ!」ということも珍しくない。今回は、転封で新天地に行ったものの、涙を呑んだ大名を取り上げることにしよう。

■黒田官兵衛(播磨→豊前)

 天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州征伐(島津氏征伐)を終えると、黒田官兵衛に豊前国に約12万石をあたえた。官兵衛にとっては、大出世だったといえるが、苦難の道のりが待っていた。

 秀吉は官兵衛の力量を恐れて、あえて九州に追いやったという説があるが、根拠のない間違いである。すでに関白になっていた秀吉にとって、官兵衛は恐れるに足りなかった。

 官兵衛は中津城(大分県中津市)を築き、支配の拠点にしようとした。すると、豊前の国衆が官兵衛の入部に反対し、大規模な一揆を展開したのである。その急先鋒だったのは、伊予への転封を命じられた城井氏だった。城井氏は伊予への転封を拒否し、豊前国に止まろうとしたのだ。

 官兵衛は持久戦で敵の兵糧を断ち、最後は城井鎮房を中津城内で殺し、鎮圧に成功した。その際、ほかの大名の助力があったことを忘れてはならないだろう。官兵衛にとっては、大きな試練だったに違いない。

 なお、官兵衛は「人を殺したことがない心優しい人」と言われているが、嘘である。

■堀秀治(越前→越後)

 慶長3年(1598)、上杉景勝が越後から会津に移封になると、玉突き人事で堀秀治が越後に入部した。秀治は越前で18万石を領していたが、越後では30万石と大幅な加増となった。普通なら素直に大喜びであるが、世の中は甘くなかった。

 秀治が越後に入ると、越後で徴収された年貢は、景勝が新天地の会津に持っていかれたあとだった。おまけに、領内の農民も越後に連れ去ったので、誰が田畑を耕作するのか頭を抱えることになった。秀治は、財政不足に悩まされることになったのである。

 秀治は年貢や農民を返還するよう景勝に要求したが、拒否された。景勝の年貢・農民持ち去り事件は、秀治の怒りを招いた。その後、秀治は徳川家康に「景勝に謀反の意あり」と報告し、家康は景勝を警戒した。この事件は、関ヶ原合戦の遠因になったのだ。

■蜂須賀正勝・家政父子(播磨→阿波)

 天正13年(1585)、四国征伐(長宗我部征伐)を終えた豊臣秀吉は、蜂須賀正勝・家政父子に阿波(17万3000石)への移封を命じた。それまで、蜂須賀氏は播磨龍野に5万3000石だったので、栄転である。

 しかし、阿波の祖谷山(徳島県三好市)などでは、土豪層が根強く蜂須賀氏の入部に反対した(祖谷山一揆)。当時、入部反対一揆というのは各地で起こっており、特に珍しいことではなかった。蜂須賀氏は軍事力をもって弾圧を行うが、鎮圧するには時間を要した。

 結局、蜂須賀氏は祖谷山で事情を知る喜多氏を起用して、土豪に抵抗を止めるよう説得させた。すると、徐々に土豪の態度も和らぐことになった。一揆の収束は天正18年(1590)までかかったので、いかに苦労したかがわかるだろう。

■むすび

 大名が新天地に入部するというのは、新しい県知事が県庁に入るのと訳が違っていた。秀吉は国人や農民の旧主たる大名を打ち倒すと、新たに大名を送り込み、検地を実施させた。これが抵抗の原因である。

 検地を実施すると、それまで農民が隠していた田畠が見つかり、年貢が増えることもあった。また、国人や農民が新たに入部した大名との信頼関係を築くことも大変だったに違いない。

 それゆえ、大名が加増の上、新天地に移封になることは、うれしいようで気が重いことだったのである。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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