「必要な負けもある」さくら、水泳会場から 〜ドバイ2017アジアユースパラを終えて(2) 〜
12月13日(水)にドバイで閉幕した「アジアユースパラ競技大会」水泳競技には19カ国が参加した。日本からは22人(身体障害15・知的障害7)が参加。金メダル19を含む43のメダルを獲得する強さをみせた。
大会3日目・最終日の朝、水泳プログラム最初のレースは、400メートル自由型。世界ランク4位の小池さくら(16歳・日体桜華高/S7)が「いちばん楽しみにしている」と話していたレースだ。
小池は、生後11ヶ月のとき脊髄硬膜外血種により脊髄損傷となり、母親の勧めなどでいくつかのスポーツを経験したすえ、水泳に取り組む。日本代表・峰村史世監督が指導するクラブチームで、パラリンピック金メダリスト鈴木孝幸らベテラン・パラスイマーとともに練習を積んできた。リオパラリンピックへの出場はかなわなかったが、2020東京に向け、着実に積み重ね、今大会は日本選手団の旗手を任されていた。
砂漠のまん中に特撮モノの秘密基地のような巨大な建物。1万5000人が観戦できるハムダン・スポーツ・コンプレックス(Hamdan Sports Complex)。選手団のホテルから約40キロ(ほぼ1時間くらい)だが、ところどころで渋滞もあった。建物内のメインアリーナではバドミントンの大会が行われていた。その傍のトレーニング用のプールが「アジアユースパラ競技大会・競泳会場」となった。トレーニングプールであるためアップ・ダウンのためのプールはなく、練習は朝とお昼休みに行われた。
水深3メートル、電光掲示板も備え付けられ、照明は間接照明で公式大会では見慣れないムードを醸し出していた。
大会は3日間、予選なし、異なるクラスが同時に泳ぐマルチレース方式で、スタートリストは当日までわからなかった。
「整っていない環境で、どれだけいつもの自分の泳ぎができるか」それが今回のレース、と選手もスタッフも考えていた。何が起きても慌てたり、失望したりせず、ベストが出せるように。日本ユース代表水泳チームは全員が同じ気持ちで泳ぎ、応援の声が確実に届きそうな距離のスタンドから、いつものエールが送られた。
小池は、初日は2種目に出場し両種目で金メダルを獲得した。1日目のレース後の感想は「可もなく不可もなく、いつも通りです」と、堂々としていた。
今年はメキシコでの世界選手権へ出場するはずが、大きな地震により延期、日本代表は不参加で、小池にとってもこのアジアユースパラがシーズン最後のレースとなった。練習も生活も年頃の同じ選手たちとの交流も楽しみ、順調だった。
「必要な負けもある」
楽しみにしていたその400メートルだが、試合を前に、小池は思わず緊張してしまう。アジア記録更新を目標にしていたが、結果として、ベストより20秒も遅いタイムにしかならなかった。
試合を終えた小池の横顔は、悲しそうだった。閉会式では笑顔が戻り、翌日、解団式を終えたあと、話を聞くことができた。
ーー最終日の400メートル自由形を振り返って、どうでしたか。
「レースの朝になって、色々と考えすぎ、不安が湧いてきました。そこにタイミングよくチームメイトが来てくれたので、涙が出て、大泣きして・・。スタートしましたが、やはり、うまくいきませんでした。終わるといつも電光掲示板を見て記録を確認するんですが、見る気がしなかったです。これまでも課題の呼吸のコントロール、200メートルでの後半への切り替え、そしてメンタルの強化がこれからの課題です」
ーーアジアユースを終えて、何を学びましたか。
「いつも400メートル自由形からは学ぶことが多いです。今回は、日本選手団の旗手としても誇れるタイムを出してメダルに貢献したかった。いつも以上に、悔しさを感じました。『必要な負けもある』って、花岡さんも言っていましたが、今回、失敗することで大きな学びを得ることが必要だとわかりました。なので、よかったと思います」
ーー次の目標は
「3月の富士で行われる記録会です。アジアパラなどの選考会にもなります。この大会は毎年みんなピリピリしているのですが、乗り越えて、大ベストを出したいと思います」
ーーおつかれさまでした。ありがとうございました。
次は、インドネシア・アジアパラリンピック!へ
多くの若い選手たちは、これから、スポーツを通じて競技・国、そして障害の種類や程度を超えた交流が始まる。2020東京パラリンピックを頂点にした登竜門の大会が、ドバイでのアジアユースパラであった。2009年からは4年ごとに継続的に行われるようになった。2009年東京で行われた大会がそうであったように、パラリンピックへの最短距離であり、国内各地で開催された選手発掘プロジェクトに参加した若い選手らが可能性を確かめる場となった。