ミス・ユニバース日本代表「キモノ炎上」から考える、伝統文化の保護と《ハイブリッド表現の自由》
ミス・ユニバース世界大会で日本代表が着用した衣装に、SNS上で「残念」、「せめて左前(死に装束を意味する)はやめて欲しかった」といった批判的な声が上がり、ネットニュースでも取り上げられている。
ミス・ユニバース日本代表の“伝統衣装”に批判続出。「せめて左前はやめて欲しかった」(ハフポスト2021年12月13日掲載)
「日本人を侮辱」…“死に装束”ミス・ユニバース日本代表衣装へ怒り=韓国報道(Wow!Korea 2021年12月14日Yahoo!ニュース掲載)
筆者は先日、「文化の盗用」問題と差別表現との関係について考察した論説を「法学館憲法研究所」に寄稿したばかりだった。
リスペクトか盗用か 民族文化と模倣 (法学館憲法研究所 2021年10月18日掲載)
以下、こちらの記事をもとにしながら、このミス・ユニバース日本代表の衣装への炎上について考察してみる。
世界で起きてきた、「キモノ」炎上
ここ数年、ファッション界や美術館のイベントで、日本の着物をもとにした表現が「文化の盗用」cultural appropriation として炎上する事例が増えている。「ヴァレンティノ」のウェブ広告で、日本の着物の帯に見える布の上をハイヒールを履いたモデルが歩く演出が、「日本の文化を冒涜(ぼうとく)している」との批判を受けた。また、2019年には、人気セレブのキム・カーダシアンが自身の下着ブランドに「KIMONO」というブランド名を付けたところ、批判を招いたため、変更している。美術の世界でも、2015年、ボストン美術館でモネの絵画「ラ・ジャポネーズ」の前で着物を試着し撮影するイベントが、「文化の盗用」「人種差別的」といった抗議を受けて中止になっている。
着物以外の表現としては、ファッション・ショーで白人モデルたちがドレッド・ヘア(黒人のスタイルとされてきた髪型)で登場したことが批判を浴びた。また日本国内でも、アイヌ民族の文様や言葉の商業利用の中に、「文化の盗用」にあたるものがあるとの指摘がある。この問題については、現在、アイヌ民族の知的財産権保護のための社団法人もある(阿寒アイヌコンサルン)。伝統的な文様や刺しゅうなどを模倣して大量生産によって価格を安くした商品が出回ることで、アイヌ文化本来の「ものづくり」の良さが見失われ、アイヌのクリエイターの意欲がそがれてしまうことが懸念されている。ここには文化的価値の保護と、経済的利益の保護の両面の問題が含まれている。
模倣の自由と知的財産
文化は、触発と模倣によって発展してきた。誰かが何か目新しいものや、これまで注目されていなかったものを発見し、触発され、それを自分の表現や生活文化に取り入れようと模倣することは、歴史の中で無数に繰り返されてきた。モネもゴッホも自身の作品の中で日本の伝統美術を模倣しているし、フランスやドイツで発達してきた磁器も、日本・中国の磁器の技術とデザインの模倣から出発しているが、こうした数百年にわたる文化交流と混交を「盗用」として非難する人はいないだろう。
しかし、文化や芸術が複製技術によって大量生産される時代に入ると、模倣による「被害」というものが、放任できない問題となってくる。そこに「知的財産」の制度が生まれた。こうした制度ができてくると、自由にしておくべき模倣と、法によって規制すべき「盗用」との間の線引きが必要になってくる。
しかし伝統文化の盗用の問題は、知的財産権(意匠権や著作権)で保護することが難しい。意匠権も著作権も、創作性があることが必要で、伝統文様を忠実に継承した表現では権利がとれない。しかし権利のために個人的創作を加えることは、文化への冒涜と感じられ、批判の対象となりやすい。今回のミス・ユニバースの衣装デザインは著作権に関する問題ではないが、伝統文化に対して創作を加える、あるいは伝統文化を素材にして創作作品を作るといった《ハイブリッド表現》が批判・反感を呼びやすいという点では共通している。
一方で、こうした伝統文化をそのまま著作権保護の対象とするために、著作権を個人の作品の権利として見るだけではなく、集団の権利として保護する考え方も提唱されている。これが法制度にどのように反映されていくのか、今後に注目していきたい。
差別的な社会的文脈への理解
こうした事柄が炎上するときに焦点となっているのは、模倣による経済的被害よりも、冒涜的に扱われている、差別的に扱われている、物笑いにされている、といった情感の問題、あるいは人格的な問題のほうだ。先ほど見た事例の中では、ファッション・ショーで白人モデルがドレッド・ヘアで登場したことが問題視された例がそれに当たる。
アメリカでは、奴隷制度があった時代に「ミンストレル・ショー」というものが流行した。これは、白人が黒人の滑稽さを誇張して演じて面白がるという「お笑いショー」である。これは紛れもない人種差別文化であり、不適切、不見識な表現の代表とされている。アメリカにはこうした表現ジャンルへの明確な反省があるために、白人が顔を黒塗りにして黒人を演じることを、差別表現・侮蔑表現として拒否する感覚が共有されている。法的に規制はされていないが、平等社会を作るという政治的目的を共有する社会にとっては不適切な表現だ、という合意があるのである。ファッション・ショーで白人がドレッド・ヘアで登場する場面などは、そうした背景を考えずにただ見れば、「カッコいいのになぜ?」と思える。表現者の側では「カッコいい」というリスペクト感覚で模倣したのに、模倣された側からは「侮蔑された」「盗用された」という負の感情が起きてくる、ということは、現実にさまざまなところで起きる。
異文化理解の作法
20世紀のうちは、映画の中で欧米人が描く「日本人」にも、安易なステレオタイプと揶揄が込められていたものもあった。「ティファニーで朝食を」の中には、そうした日本人像が出てくる。名作ではあるが、当時の多様性認識の限界というところだろう。しかし、一歩間違えば物議をかもしそうなテーマ・演技を敢えて行いつつ、対象に十分なリスペクトを払っていることが見る者にわかる作品もある。
たとえば映画「レナードの朝」では、ロバート・デ・ニーロが、神経の異常によって痙攣(けいれん)を繰り返す患者を迫真の演技で演じている。見ようによっては、身体障がい者や病人をいたたまれなくさせる模倣表現だと指弾されてもおかしくない。しかしそうした批判によって上映がボイコットされたという話を、筆者は知らない。作品の意図と、演技者の真剣さが、見る者に明確に伝わる作品だからだろう(作品意図が明確すぎて説教臭くなっている、という批評はあると思うが、そういう高度な批評はここでは措くことにする)。
そうした作品には、作る側に相当の覚悟と力量がいる。上の作品の中の俳優の演技のエネルギーは、見る者に、弱者を物笑いにする安易な模倣とは思わせないだけの迫力がある。この覚悟や《伝えるエネルギー》があるかどうかを、法律によって判定することは、とてもできそうにない。炎上した数々のケースと、炎上しなかった作品との間の線引きは、法律に委ねることはできないだろう。「文化的盗用」や「差別的模倣」の問題と根底で結びついている差別感情の問題は、社会全体が取り組むべき体質改善の問題であり、法規制による対症療法にはなじまないと思われるのだ。
したがって、この種の問題は、法の問題としては、法で決着をつけるより受け手が自由に感想や批評を言い合う「言論の自由市場」に委ねるほうがよい、と筆者は思う。しかし文化政策の問題としては、そこで終わりにするのではなく、文化的衝突を険悪化させないための工夫は必要で、現在、いくつかの方策が模索されている。
伝統を保護するなら
伝統文化を大切に思う人々からすれば、伝統文化に新たな解釈やアレンジを加えることは、伝統文化を傷つける表現に見えるかもしれない。おそらく、今回のミス・ユニバースの衣装は、日本社会に現在定着している「着物」の外形とは相当に違うので、そう感じた人が多いのかもしれない。しかし筆者が感じた第一印象は、この衣装を考えたデザイナーは、現在確立している着物スタイルよりもずっと古い、古代の歴史や神話に出てくる女性の装束を参考にしているのではないか、ということだった。それと現在の原宿ファッションを融合させたというのは、ある種の奔放な生命力を核に据える解釈をしたということではないだろうか。
そう考えると、この《型》を壊して肌を見せる力強さは、「歌舞伎の創始者・出雲阿国(いずものおくに)なども、このような雰囲気の女性だったのでは」、と思わせられるものがある。しかし一方で、この衣装のきらびやかさや肌の露出を、日本の着物の表現として冒涜的だと感じる人もいるだろう。かの出雲阿国もそうした理由で睨まれたのか、その後の江戸時代になると女性が舞台でその種の歌舞音曲を演じることが禁じられた(それで現在の歌舞伎はすべて男性が演じるものとなっている)。
こうした新たな展開によって本来あった伝統文化が変形し忘れられてしまうことを心配する人々のその心情は、たしかに無視してはならないものがある。しかしそちらに歩み寄るならば、新たなハイブリッド的展開を封じるよりも、伝統文化に文化財指定などの価値承認をしていくことのほうに、意味があるだろう。これは実際に行われている。
これに加えて、模倣をしようとする表現者に、無神経な模倣、歴史に無理解な模倣を慎んで、真摯な理解を促すガイドラインを策定する、という方策を組み合わせることが良策なのではないか。文部科学省もこの問題への取り組みを行っている。また国際レベルでも「文化享有権」の中でこの問題が議論されている。
ハイブリッド性が象徴するもの
そしてもう一つ、これは何のシンボルなのか、ということが重要である。これは日本イスラエル国交樹立70周年を記念し、イスラエル人デザイナーがデザインしたという。つまり、これは「日本のシンボル」としてよりも、日本とイスラエルの国交のシンボルとして見るほうがよいのである。とすると、厳密に日本の伝統美を体現することよりも、多少の不正確さ・間違い・違和感はあっても、そのハイブリッド感を許容する寛容さを示すことのほうが、国交を記念するシンボルとしてふさわしい姿勢と言えるのではないだろうか。
先に見たような文化政策的な取り組みと、こうした出来事を乗り越える実践例の積み重ねを通じて、異文化理解のプロセスを組み込んだ共存社会づくりが前進することを願っている。