女人禁制の旧体質「変えるつもりはない」と発言の高野連事務局長が「討議する」、高校野球は変わるのか?
今日から甲子園で夏の高校野球が始まったが、新聞報道によると高野連の竹中事務局長は甲子園練習で女子マネジャーが参加を制止された件について、9月下旬の全体審議委員会で討議すると語ったという。そうなると、11月の理事会に諮られる可能性もある。その寸前には、東スポの記事で、「一切変える気はない」と強気の(というか随分高飛車な)発言をしていただけに、その豹変ぶりには驚かされる。
その後の周囲での騒ぎの大きさに動揺したのだろうか。このあたりは、何やら舛添前東京都知事が、「都知事というのはトップリーダーなんですよ」と勝ち誇ったような表情とポーズで語っていながら、立場が悪くなると「給与を返上したい」とまで言い出したことを思い起こさせる。
本当に自分の主張が正しいと思うのなら(そう思えないが)とことん言張れと言いたいが、そこまでの信念もなかったということか。
いや、とりあえず翌月に審議すると発言することで、開会式前に事の収束を図っただけの政治的策略に過ぎなかったのかもしれない(別にルールを変更すると言っているわけではないのだから)。
しかし、ここのところ毎年のように甲子園では高校野球の在り方の根っこの部分に関わるような問題が話題になっている。
それらは、安楽投手(現楽天)が5試合で722球も投げたことを米メディアが問題視したことに端を発した選手の健康管理問題であり、超スローカーブによる「スポーツマンシップ」論争や一部集団によるネット裏席の占拠問題であり、今回の女人禁制問題だ。
このことは、いかに高校野球が国民的関心事であるかということだけでなく、高校野球を高校野球たらしめている各種の様式や運営方法が時代にそぐわなくなっていることを現している。しかし、このことの根は深いと思う。今回の問題も秋が深まり世間の関心が高校野球から離れる頃に、しれっと「変更なし」となるかもしれない。
そもそも、高校野球を古典的な様式に拘る「過酷な環境の中での感動物語」にしておきたいのは、高野連やメディアだけでなく、主役の選手たちも同様だ。
最終打者が一塁にヘッスラするのも敗戦チームの選手がフィールド上で泣き崩れるのも、インタビューでおあつらえ向きの感動コメントを発するのもぼくにはひどく鼻につくが、彼らも「感動を与える球児」を演じたいのだ。こういうと「なんという不謹慎なヤツ」と思われるかもしれないが、現実はそうだ。
哲学者のサルトルはパリのカフェで働くギャルソン(給仕、球児ではない)を例に、存在論を展開した。1人の人間もTPOに応じた異なる役割を演じる俳優だというのだ。家に帰れば1人の父かもしれない給仕も、勤務中は各種の約束事の中で成り立っているギャルソンに期待される役割を演じている。球児(野球の方だ、ややこしいが)も、世間や運営者から求められる球児の役割に共感し、それを演じている。
今回の女性差別問題もそんな高校野球の在り方に一石を投じることにはなったと思うが、高校野球がそう簡単に変わる可能性は低いだろう。