「なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。」
杉田議員の言いたいことは、正にこの一言に尽きている。おそらくこれが彼女の偽らざる本音なのだろう。
しかし、「いけない」のである。なぜなら、その枠組みにはめこむことのできない性的少数者が実際に存在し、事実、社会の中で差別や不利益を受けている以上、その存在を認めたうえで支援を進め、それにより差別や不利益を是正する必要があるからだ。
そして何より重要なのは、差別をされたくないという性的少数者の願望や欲求が、多数派である異性愛者や性的多数者の人権を阻害するおそれのない、純粋な自己決定の範囲に収まる性質のものといえるからである。他人に迷惑を掛けないのであれば、他人の自由は認めるべきだし、差別されるべきではない。
なお、誤解のないようにあえて言うが、上記範囲を超える「支援」は単なる行き過ぎた対応であり、およそ支援とは呼べるものではない。真の問題は、多数派の人権を阻害しない範囲の、共存可能な「支援」の枠組みや限界をどうしていくべきかという点にある。
今回杉田議員が持ち出した、支援すべきかどうか(しないべきである)などという入り口論は、既にオワコンである。
むしろ杉田議員に問いたいのは、なぜ素直に「いろいろ読んだし、聞いたし、考えてみたけど、やっぱりLGBTというものが感覚的に受け入れられないです。」という本音を吐露できなかったかということである。そう正直に一言書いたほうが、よほど納得できる。
寄稿によれば、杉田議員はLGBTを巡る社会の動きを新聞各社の報道で知っており、また実体験でも当事者から話を聞くなど、知識がないわけではない。そのうえで、理由を断片的に並べて、さも冷静かつ合理的に批判しているように振舞っている。
しかし、結局のところは、そのどれもが論理破綻していることはもちろん、共感力に乏しい、また言いようのない嫌悪感と未知に対する恐怖心によるものでしかなく、支援を進める姿勢への批判として全く機能していない。
そもそも、「実際そんなに差別されているものでしょうか。」という発言や感覚は、たまたま既存の社会常識の中を生きてこられた幸運な人間の、専売特許である。この付加疑問文を発すること自体、仮に悪意がなかったとしても、著しい過失がある。差別の存在を明確には認めようとしないこの姿勢は、自身と同様に公務員の立場の者の同性愛者に対する対応が大問題となった東京都青年の家事件(東京高判平成9年9月16日判タ986・206)の地裁すら認めた「従来同性愛者は社会の偏見の中で孤立を強いられ、自分の性的指向について悩んだり、苦しんだりしてきた」という実態を完全無視あるいは敢えて言及しないものである。議論のスタート地点で著しい事実誤認をしているがために、それに続く寄稿の内容は当然、破綻の一途を辿る。
これに引き続き、日本社会が従来から同性愛に「寛容」などという評価を加えているが、その理由はつまるところ、同性愛が禁止・迫害された歴史がないからという短絡的なものである。
しかし、そうではない。日本では、同性愛はそもそも存在自体が「ないものとされてきた」のであり、存在を認めたうえで受け容れる「寛容」とは程遠い。LGBTをテーマとした各種の議論は、日本社会にとって従来ないはずとされていた概念をどのように社会全体で理解し、支援を構築していくかという、非常に難しい作業でもある。
さらに難しいのは、実はLGBTという言葉がいわゆる性的少数者を包含しきれていない概念だったりするので、その支援の範囲もまた、議論していかなければならないということである。「寛容」などという言葉で問題意識に蓋をすることは簡単であるが、それは複雑困難な議論に対する逃げでしかない。
さらに、LGBTが抱える「生きづらさ」に対して、両親がLGBTの子を受け容れれば解決するとしているが、社会とそのごく一部たる家族を混同するもので、的外れな指摘である。その多数が異性愛者である両親が、子のLGBTであることを受け容れられない背景には、当然に、社会の中で差別などを受け苦難して生きて行かざるを得ない、子がLGBTなどと他人に知られたら不利益を受ける、という心配や認識がある。そのような心配や認識を変えるものこそが、社会制度である。
次に、杉田議員は行政の支援=「カネ」をLGBTに投入することの疑義を述べるが、当該指摘はLGBTを超えて、子供を作らないないし諸般の事情で作れない夫婦その他の人々をも侮蔑したものとして、激しい批判にさらされている。
それにとどまらず、「生産性」を局部的に解釈している点に大きな問題がある。杉田議員が重視する日本の生産性の維持や発展という観点で言えば、産まれてくる子供について支援するのと同時に、今現在生きている人間の生活を維持する、すなわち自殺者やメンタルヘルスを患う当事者などを保護することもまた当然に含まれるはずである。
そしてその保護のためには、社会制度、支援を充実させる必要のあることもまた、自明である。日本において、LGBTを苦にして自殺等する若者は、統計上でみても相当数存在するし、筆者自身も、LGBTの友人が自殺したりメンタルヘルスを患う例を見てきており、身近な問題と捉えている。これに一切言及しないまま、単純に産んで増やせるかという点に注意を向けさせており、乱雑な指摘と言わざるを得ない。
その後、「LGBとTを一緒にするな」という、さもLGBTについて一見して深い理解を得ているかのような表題を置いたうえで寄稿を展開している。要するに、Tは障害であるため一定の保護の必要性は感じるが、それ以外は一過性のもので、大人になれば「軌道修正」するのであるからメディアが騒ぎ立てて性的少数者を煽る、作出するようなことをすべきでないとの趣旨の主張である。さらにこれに交えて、制服にかかる配慮からトイレの話を持ち出し、自分の好きな性別のトイレに入れるとすれば大混乱であるなどと警鐘も鳴らしている。
この一連の寄稿は大前提として、性的指向を性的「嗜好」と表記している点に問題がある。すなわち、当事者は自ら好き好んでLGB(Tも含む)に「なる」のではない。その多くが、思春期に自分の中に生まれるいわゆる違和感がなんであるか理解できないまま自分を責め、また、社会の中での差別や親の心配・批判を恐れ、「なるべくそうならないように」と、もがき苦しむ。しかもそれは、軽々に他人に相談できるものではなく、孤独感にさいなまれる。性的指向や性自認は、自分で選択できる性質のものではなく、その人自身を構成する根幹的な人格そのものであって、「嗜好」とは全く異なる。これを敢えて理解して使用しているのであれば、杉田議員は確信犯的にLGBTを侮蔑していることに等しい。
LGBTについて教育するということは、上記のような苦しみを抱えた若者に、まずはそのような人の存在を知らしめる、そして、自分もこれでもいいんだという安心感、つまり自己肯定感を与えるものとして非常に重要な意義を持つ。そして、当事者でない人間に対しても、そのような人が一定程度当然に存在し、社会の中で共存しているということを認識させる機会となり、差別や偏見などの防止につながるのである。このような考え方は、至極「常識的」ではあるまいか。
そのほか、トイレ問題については、確かに防犯の観点などから、更に充実した議論が必要であることは否定しない。また、性的少数者の分類が多岐にわたりすぎるという危惧も、そもそも性的少数者がLGBTという枠でとらえきれないと言われる今日においては、重要な指摘ではある。
しかし、これらの指摘はいずれも、LGBTを中心とする性的少数者の支援をどの範囲まで行うかという限界に対する指摘として傾聴に値するものではあっても、支援そのものを批判する根拠とはなり得ない。
今、LGBTの問題として議論すべきは、どこまでが合理的かつ正当な権利主張として支援の対象となるものか、どこからが単なるLGBTのワガママとして排除されるべきか、という棲み分けである。冒頭で述べたとおり、多数派である異性愛者や性的多数者の人権を阻害するおそれのない、純粋な自己決定の範囲に収まる性質の支援を模索するべきである。
日本を代表する国会議員には、是非とも共感力とバランス感覚をもって、LGBTに対する必要かつ相当の支援について、闊達な議論をしていただきたい。