【東京都杉並区】ひとつ屋根の下で、子供を育みながら古民家風の空間で客をもてなす酒場が荻窪にある
煮込みやまる
『煮込みやまる』は、今年の3月に開店から10年の節目を迎えた。
酔街草も開店当初から通っている古株の端くれだが、何気なく通りかかった古民家風の店のカウンターの中で、うら若き女性が羽織をまとって燗をつけている姿に遭遇してしまい、鎧袖一触で足を運ぶ羽目になってしまったクチである。
店主の”あっきー”こと、秋長喜実子さんがこの店を構えたのは、彼女が27歳の時。飲食店で働きながら、趣味で中央線界隈を呑み歩いたものの、女性独りでも気軽に入れる「コの字」カウンターの酒場が少ないことを嘆き、ならば「自分で作ってしまおう!」と一念発起したのが切っ掛けだった。
店は当初から古民家風にしようと決めていた。独りで店を切り盛りするためには”調理に手間がかからないもの”と、あれこれ思案した結果、他に競合する店が見当たらなかった事もあり、煮込みを売りにする店に決めたと言う。
荻窪駅の南口へ出て「仲通り」を直進すること約2分。『ドトールコーヒーショップ』傍の曲がり角に注目すると、あたかも古びた道祖神の如く並ぶ小さな看板が見つかるはずだ。
その角を左折して細い路地に入ると、古参の居酒屋『つば磯』と焼き鳥『鳥七』の間に『煮込みやまる』が、ひっそりと佇んでいる。
この裏路地の情景が、何とも言えないレトロな雰囲気を醸し出していて好きである。夕暮れ時ともなると、誰しもがまるで昭和の時代にでもタイムスリップしたかのような錯覚に捉われてしまうはずだ。
ちなみに、ここでは多くを語らないが、真隣りの『鳥七』の二代目店主の伊藤健(たける)さんは、何を隠そう、”あっきー”の夫なのである。
馴れ初めを聞いて驚いたのだが、二人は以前に勤めていた飲食店時代の同僚であり、後継ぎのいない老夫婦が営んでいた『鳥七』を健さんに継いでもらうべく”あっきー”が取り計らった後、結婚に至ったのだそう。
現在は7歳の長男を筆頭に、4歳の次男、3歳の三男と3人の子宝に恵まれて、『煮込みやまる』の2階で仲睦まじく暮らしている。
漆喰壁と木目の変型「コの字」カウンターは、アンバーな灯りに照らされており、古民家好きのハートを否応なしにくすぐる。わざと古びた木材を使うことで、年季の入った店の雰囲気を演出したそうだ。
12席のみとコンパクトな店内は、客同士のコミュニケーションも取りやすく、開放的な窓の造りゆえに、外から満席か否か混み具合が窺えるのもいい。
開店当初から時を刻む古時計も、今もって健在だ。横森良造が演奏する『巴里の空の下 アコーディオンは流れる』のBGMも、まったくもって変わってはいない。
ちなみに、トイレの音消しのサム・テイラーのサックスが奏でる『夜霧よ今夜も有難う』も、既にザリザリとした音色になってしまったが、もう飽きるほど聴かされている。
席に着いたら、まず「本日のメニュー」をチェックしたい。品数はさほど多くなくても、季節を感じさせる肴が日替わりで用意されている。値段もリーズナブルで、懐にも優しい。
営業時間は21時までと、他の店に比べたら格段に早い。下に書いてある文章を読めば納得せざるを得ないだろうが、なかなか泣かせる文句だ。
定番メニューで欠かせないのは、やはり「煮込み」であろう。味噌味の「牛スジ煮」、醤油味の「肉豆腐」、塩味の「モツ煮」(各550円)と、3種類の中からその日の気分でチョイスできる。特に「牛スジ煮」は、残ったスープでグラタンにしてもらえるとあって人気の一品だ。
小豆島の実家から呼び寄せ、今は同居している母親直伝の「だしまき玉子」(450円)も捨て難い。
酒類も通好みをいろいろと揃えているのだが、ユニークなのが日本酒のネーミング。「この日本酒はどんなお酒なの?」と聞かれて、”やれ味わいはどうのこうの、やれ辛口でどうのこうの”と一々説明するよりも、女優や歌手の印象になぞらえたほうが通じたのが発端だったらしい。
ちなみに、写真のメニューには載っていないが、酔街草の愛飲する三重の銘酒『るみ子の酒』は、嬉しいことに(夏目雅子)なのである。
熱燗に自家製の「さつま揚げ」(500円)と「らっきょう漬け(季節品)」(350円)は、無敵の組み合わせ。酒器選びのセンスも、なかなかの手練れだ。
煮込みには、入れ放題の刻みネギと、それぞれに見合った特製の七味が提供される。味噌味の「牛スジ煮」のみに付いてくる煮玉子は、間違いのない旨さ!
ただ、残念ながら、グラタンまで行き着く前にいつも汁を飲み干してしまうので、チーズとのコラボは未だにお預け状態なのだ。
この店の不思議な所は、10年経ったと言うのに、定番のメニューも酒の品揃えやBGMさえも何ひとつ変わっていないという点だ。唯一、変わったのは独身だった女将が結婚して、今や3児の母親となった事くらいだろうか。
しかるに、3人の幼な子を育てながら店を切り盛りするには、相当の覚悟と努力が必要だったはずである。
「仕事帰りのお客さんは、非日常の時間を過ごしたいはずなのは分かっているつもりです。最初は、店の前や中で子供達がギャーギャー騒いでいたら申し訳ないと思いましたが、背に腹は変えられません。ここで暮らして行くのだからと腹をくくりましたね」と、伏し目がちに語った”あっきー”。
映画『男はつらいよ』の「とら屋」のように、かつては住居を兼ね、いつも子供の声が響いているような商店や飲食店が当たり前にあった。『煮込みやまる』の子供達は、幸いにも、店の口開けに来ていた高齢客に孫のようにあやしてもらえたり、ちょっとした間に子供の面倒を見てくれる世話好きの女性客にも恵まれてきた。
”食育”という言葉になぞらえるなら、世の中に”酒場育”とでも呼ぶ子育てスタイルがあっても良いのではないだろうか。いつの日にか成人となった3人の子供達が、カウンターに並んで盃を交わしている光景を、この眼で眺めてみたいものだ。
さてさて、今宵も大満足。ご馳走様!