武豊、横山典弘と凱旋門賞に挑んだ元・名ジョッキーの子息のエピソード
横山典弘のひと言で競馬の世界入りを決意
10月の第1日曜日。毎年その日程で行われる凱旋門賞(GⅠ、フランス・パリロンシャン競馬場)が今年も間もなくに迫った。
古くはスピードシンボリやメジロムサシが挑戦し、エルコンドルパサーやオルフェーヴルは善戦。キズナやマカヒキといったダービー馬も挑戦するなど、近年は日本馬が名を連ねるのが当然のようになった欧州の大舞台だが、今から20年以上も前、志半ばにして1人、スタンドからこのレースを眺めた日本のホースマンがいた。
1971年5月18日、4人兄弟の次男として、東京都府中市で生まれたのが小島良太だった。
父は現役騎手時代“サクラ”の主戦として名を馳せた名手・小島太。
「幼い頃から祖父の勝太郎さん(境勝太郎元調教師、故人)と暮らしていて、父に会うのは競馬場くらいでした。サクラシンボリに騎乗してエプソムCを勝った時のレース後に『良太が来ていたからオヤジ頑張ったぞ!!』と言ってもらえたのが凄く嬉しかったのを覚えています」
体が大きかったため騎手になる気はなかったが、馬の世界で働く事は漠然と考えていた。
「高校を卒業して、東京で1人暮らしをしながら専門学校に通っている時でした。当時、売り出し中のノリちゃん(横山典弘騎手)が、日曜の競馬終わりで毎週のように食事に連れて行ってくれました」
そんなある日、いつものように食事をしていると横山が競馬ファンに声をかけられた。
「そのファンに向かって、ノリちゃんが『こいつはいつか俺の片腕になってくれる人間だ』と言って自分を紹介してくれました」
その瞬間「競馬の世界に入ろう!!」と決心した。
「高校生くらいまでは競馬といえば父ばかりを見ていました。でも、この頃になるとノリちゃんとユタカさん(武豊騎手)に憧れるようになっていました」
専門学校を出た後、谷岡牧場などいくつかの牧場で働いた後、競馬学校に入学。94年7月から美浦トレセンで働くようになった。
「それからしばらくして父が騎手を引退し調教師になりました。騎手を引退する日はこっそり競馬場へ見に行きました」
最後の日だというのに野次を飛ばしている人がいた。腹立たしく感じつつそちらに視線をやると、息を呑んだ。
「その人は泣きながら野次っていました」
父が競馬ファンに愛されていた事を再確認した。
祖父の厩舎で名馬と出合う
そんなある時、当時現役の調教師だった祖父・境勝太郎に厩舎へ呼ばれ、言われた。
「話はつけたからうちの厩舎で働きなさい」
すぐに境厩舎に転厩すると、怪我で休養中の1頭の馬の面倒を見るように指示された。その馬を良太は昔から知っていた。
「谷岡牧場で働いていた時に生まれたばかりのこの馬がいました」
サクラローレルだった。
「両前脚をギブスで固定して動けない状態でした。それでも勝太郎さんは『俺の言うこと聞いて辛抱してやれば大丈夫だから』と言って、半ば強引にやらされたという感じでした」
ところがその言葉に嘘はなかった。96年3月、サクラローレルは中山記念(GⅡ)で13か月ぶりに競馬場に戻って来た。それまで主戦として乗って来た父が引退し技術調教師になっていたため、新たにタッグを組んだのは横山典弘だった。
「結局この復帰戦を勝つと、その後、天皇賞(春)も優勝。秋には有馬記念も勝ってくれました」
以前、横山が言ってくれたように「片腕になれたかな……」と思った良太にとって、もう1つ、嬉しい事があった。
「当時二十代半ばの僕より技術のある人が厩舎には沢山いました。でも、勝太郎先生は有馬記念までずっと僕を乗せ続けてくれました。自分には大きな財産になりました」
その反面、時計が少し狂っただけで物凄く叱られた事もあったと言う。ただ、それも祖父の優しさだった事を、良太は後に知った。
「『周囲から“孫に良い馬をやらせて”と言われないように、心を鬼にして厳しくあたっていた』と、祖母から教えてもらいました」
そんな境勝太郎は97年に引退。バトンを受けるように小島太厩舎が開業すると、良太はサクラローレルと共に父の厩舎へ移った。
横山に指示されて武豊にした事とは……
その年の秋の事だった。サクラローレルは、凱旋門賞に挑戦するためにフランスへ渡った。オールドファンなら小島太がフランス競馬に傾倒していた事をご存知だろう。騎手として幾度もかの国へ飛んだ彼にとって、凱旋門賞は最大の目標の1つだったのだ。父の夢をかなえるため、力になれれば、と海を越える事になった良太だが、1点だけ、腑に落ちない事があった。
「フランスではユタカさんに乗り替わる事になりました。ユタカさんは自分にとっても憧れだったし、向こうでの経験も豊富なので、乗り替わり自体は理解出来ました。でも、それまでずっとノリちゃんで勝ってもらっていた事を考えると、すんなりと受け入れられませんでした」
もやもやした気持ちで、馬房に貼っていた同馬のポスターを見ると何かが書き込まれているのを見つけ「え!!」と思った。
「『ローレルと良太、頑張れ!!』とマジックで書きこまれていました。ノリちゃんがいつの間にか書いていたんです」
ところがそんな横山の気持ちを思うと、尚更、乗り替わりに納得がいかなくなった。
「そういう想いを抱えたままフランスの厩舎にいると、ノリちゃんとユタカさんがやって来ました」
そこで、良太の気持ちを察していた横山が言った。
「『ここでユタカと握手をしろ』と言われました」
そこで初めて『横山が“自分は乗れなくてもサクラローレルの勝利を願っている”』と気付いた。そして、世界最高峰の頂を目指すのに、チーム内で心がバラバラになっていては勝てるわけはないと痛感すると共に「全てが吹っ切れた」(良太)。
悔しい結果に勝ちたい想いは強くなる
晴れて一丸となり欧州最大の一番へ向かうため、前哨戦のフォワ賞を叩かれたサクラローレルだが、厳しい現実が待っていた。レース中に屈腱炎を発症。8頭立ての最下位8着で、青息吐息のゴールとなった。呆然として見守る小島親子に追い打ちをかけるように、現地のファンから罵声が飛んだ。
「入線後、走れない状態になっていたので曳いて帰るとスタンドから『サヨナラ~』という声が飛んで来ました」
そう言うと、ひと呼吸置いてから振り絞るように付け加えた。
「悔しかったです」
3週間後、本来サクラローレルと挑むはずだった凱旋門賞を、1人でスタンドから観戦した。パントレセレブルが勝利し、関係者が祝福される場面を目の当たりにして、悔しさは更に募った。
2002年には厩舎のマンハッタンカフェが凱旋門賞に挑んだが、サクラローレル同様、レース中に屈腱炎を発症し大敗に終わった。この時は日本から見守った良太だが、繰り返した歴史に目を覆った。
18年には父が調教師を引退。良太は和田勇介厩舎へ移った。厩舎は替わってもこの時期が来ると欧州最大のレースに馳せる想いに変わりはなかった。
「また凱旋門賞に挑みたいし、いつか必ず勝ちたい。サクラローレルで挑戦して以来、そんな想いは年々強くなる一方です」
クロノジェネシスとディープボンド、そして武豊も参戦する今年の凱旋門賞を果たして良太はどんな想いで見るのだろう。いつかまた彼がこの舞台に立てる事を願おう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)