英警察の人種差別を露呈させた「マングローブ事件」とは 資料からよみがえる過去、そして今
(ウェブサイト「論座」が7月末で閉鎖されることになり、筆者の寄稿記事を補足の上、転載しています。)
1948年、英国は第2次世界大戦後の労働力不足を補うために、当時は植民地だった西インド諸島から若者たちを招いた。希望に胸を膨らませてやって来た若者たちは、社会の現実と格闘しながら生活を築き上げていった。歴史の一こまを垣間見ることが出来る文書の数々を、英国立公文書館で開いてみた。
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英国立公文書館の保管書庫に、「MEPO31・21」と題されたファイルがある。「MEPO」は「Metropolitan Police(ロンドン警視庁)」を指す。ある事件の捜査ファイルだ。
閲覧を請求してみると、ずっしりと重い箱を渡された。箱を開けると、警視庁の捜査報告書、紙面が色あせた様々な新聞の切り抜き、写真などで一杯だ。一連の書類は1970年から71年まで続いた「マングローブ事件」に関わるファイルだった。数多い切り抜きから判断すると、当時大きな注目の的になっていたことが分かる。
カリブ海系移民の到来
マングローブ事件の名称は、フランク・クリッチロウ(1932~2010年)がロンドンのノッティングヒルにオープンした「マングローブ・レストラン」から来ている。
カリブ海に浮かぶトリニダード島。クリッチロウはこの島と周辺の諸島で構成されるトリニダード・トバゴ共和国の首都ポートオブスペインで育った。1953年6月、蒸気船コロンビ号に乗って英国にやって来た。
その5年前から、英政府は第2次世界大戦後の労働力不足を補うために多くの有色人種の移民を受け入れてきた。ウインドラッシュ号に乗って最初にやってきた移民は約1000人。そのほとんどがカリブ諸島出身だった。
この年(1948年)、英国は旧植民地となる英連邦諸国に住む人全員に英国の市民権を与えた。カリブ海周辺出身の黒人移民の到来によって、英国は戦後の多文化主義社会に変容してゆく。
50年代に入って、活路を求めて渡英した若者の1人が21歳のクリッチロウだ。2010年に78歳で亡くなるが、警察の迫害に抵抗した黒人運動の中心人物としてその名を残す。
クリッチロウの人生
クリッチロウは当初ロンドン・パディントンに住み国鉄に勤めたが、渡英から3年後に音楽バンドを作り、一定の成功を収めた。
この時の資金を使って、西パディントンのウエスト・パークに「エル・リオ・カフェ」をオープン。カフェは黒人住民のたまり場として人気を博してゆく。カリブ海からロンドンに着いた若者たちが必ず訪れるのが、このカフェだった。
カフェをオープンした1959年のロンドンは、どのような状況にあったのか。
前年の夏に発生した、白人貧困層の若者たちが移民の黒人住民を攻撃した「ノッティングヒル暴動事件」の記憶がまだ生々しい頃である。
ノッティングヒルと言えば、書店主とハリウッド女優の恋愛を描いた映画『ノッティングヒルの恋人』(1999年)のせいもあって洒落た街の印象が強いが、当時は貧困層が中心のスラム街の1つだった。
この近辺には、1950年代までにトリニダード・トバゴやバルバドスなどカリブ海地域出身の移民たちが多く住むようになり、独自の地域社会が形成されていた。
ノッティングヒル暴動事件
黒人住民に対する敵意があらわになったことで英国全体を驚愕させた暴動事件が起きたのは、1958年8月末。
約400人の「テディボーイ」と呼ばれる白人貧困層の若者たちが、ノッティングヒルやノッティングデールに住む移民の「黒人狩り」を開始した。手に持っていたのは鉄製の棒、肉包丁、重しを付けた革製のベルト。通りにいた黒人住民を追いかけ、黒人住民が住む家には火炎瓶を投げ込んだ。
現場に駆け付けた警察官に白人の若者は「黒人のやつら全員を殺してやる」と叫んでいる。もう1人はこう言った。「邪魔するな……俺たちがかたをつけてやる」。
暴動が沈静化したのは9月上旬、逮捕者は140人に上った。そのほとんどが白人だった。
翌年1月、黒人向け新聞「ウェスト・インディアン・ガゼット」の編集長でトリニダード出身のクローディア・ジョーンズが中心となって、「カリブ海のフェスティバル」が開催された。これが後に、毎年夏に開催される「ノッティングヒル・カーニバル」につながってゆく。
サミー・デービス・ジュニアも訪れたカフェ
クリッチロウのカフェは黒人住民のたまり場としてだけではなく、白人のアート系の若者たち、流行に目ざとい人々をも吸い寄せるようになった。
ノッティングヒルが英国の黒人文化のメッカになってゆく中、クリッチロウは今度は「マングローブ」という名前のレストランを1968年にオープンした。
カリブ海の料理が提供され、地元住民ばかりか国内外の著名人もやって来た。英女優バネッサ・レッドグレイプ、テレビの人気探偵ドラマ「アベンジャー」の出演者、それに米国から歌手マービン・ゲイ、サミー・デービス・ジュニア、ダイアナ・ロスやシュープリームス。「中に入り切れない客が店の外で車の中で待っていたものさ」と生前、クリッチロウは語っている。
リベラルな反体制文化、急進的だがどこか粋な感じがする雰囲気を持つのに、その一方でありふれた日常の一場面でもあり、居心地が良かった。
マングローブは、どう見ても麻薬常習者が集う危険な場所ではなかったが、地元警察は何とかしてレストランを閉鎖させようと必死のように見えた。
1969年1月から70年7月までに12回、警察は強制捜査を行った。麻薬は見つからなかったが、午後11時以降に店内で踊っている客がいた、食事をまだ出していたなどの理由で罰金を科せられた。
1970年8月9日、クリッチロウは有志とともに警察の干渉に対する抗議デモを実行することにした。行進が行われることを知った警察側は700人以上の警官を動員して監視にあたらせた。警視庁公安課の黒人運動対策室が機動体制に入った。
英公文書館のマングローブ事件ファイルには、この時の抗議デモの様子と警察官の対応を示す写真が何枚も入っている。
当日、約150人の有志がノッティングヒルからハーロー・ロードの警察署まで抗議の行進を行った。「マングローブから今すぐ出てけ」、「豚全員に告ぐ。出てけ」などと書いたプラカードを持っていた。豚とは警察官のことだ。
デモ参加者がポートランド・ロードに来たところで周囲にいた警察官らともみあいになり、暴動になった。24人の警察官が負傷し、19人が逮捕された。逮捕の理由は警察への攻撃、武器所持、脅し行為などだった。
英国民は驚いたが
「まさか、こんなことがこの英国で起こるなんて」。
保守系新聞デイリー・テレグラフは「黒人の暴力」と題した記事の冒頭でこう書いた(8月11日付)。米国では黒人公民権運動の活動家マルコムXが1965年に暗殺され、その3年後にはマーティン・ルーサー・キング牧師も暗殺された。白人市民と黒人市民との暴力沙汰は、英国の保守層にとってはよその国で起きるものであって、自国では起きないと認識されていたからだ。
テレグラフの記事は、暴力行為に加わったのは黒人市民の中の「ほんの一部であることは知っている」が、「警察はファシストの豚だ」と呼ぶような「平和を乱す行為や言葉遣い」を「白人及びほかの有色人種の市民」は許してはいけない、と締めくくった。
デイリー・スケッチ紙の記者がマングローブ・レストランを訪れ、クリッチロウに事情を聴いている(8月11日付)。
コーヒーをすすりながら話し出したクリッチロウは、抗議の行進が実行されたのは、警察がレストランを不当に罰してきたからだと説明する。「白人を嫌っているわけじゃない。白人も私たちを嫌っていないことを願うよ。こちらが嫌うのは警察官だ」。
何度も強制捜査をされて、「何らかの理由を付けて」レストランに入ってくる。「売り上げがガタ落ちだ。ここはロンドンでも黒人のたまり場になっている。警察はこちらが黒人だから麻薬があるだろうと思っているが、何もない」。
内務省をはじめとして政府の省庁に連絡してみたが「何も手が打たれていない」。黒人差別に対する抵抗のスローガン「ブラック・パワー」を支持するというクリッチロウ。「どんな黒人市民もブラック・パワーを支持するべきだよ」。
「マングローブ・ナイン」(マングローブの9人)
1971年、裁判が始まった。被告は暴動扇動罪などに問われた9人の黒人市民。その1人はクリッチロウだった。この9人は「マングローブ・ナイン」(マングローブの9人)と呼ばれるようになる。
55日間の裁判の後、暴動扇動罪においては9人のうち全員が無罪。4人は暴行罪、乱闘罪、武器所持法違反などで有罪となった。裁判長は最後にこう述べた。裁判は警察側と黒人社会側の両方の「人種的憎悪を露わにした」。
英社会の中で、マングローブ・ナインは警察の人種差別に挑戦し、勝利を勝ち取った象徴として受け止められた。
しかし、その後もクリッチロウと仲間たちに対する警察の嫌がらせは続いた。
地域社会では麻薬反対の姿勢で知られていたクリッチロウだったが、警察は1979年、麻薬所持などで逮捕・起訴。結局は再び無罪となった。
1988年、警察はマングローブ・レストランで麻薬が見つかったとして、クリッチロウを5週間、拘束した。その後保釈されたが、1年間、レストランに近づくことを禁止された。著名弁護士らによる弁護団がクリッチロウを弁護し、無罪になったが、レストランへの客足が途絶えてしまった。
1992年、クリッチロウは虚偽の拘禁、暴行、悪意ある訴追を行ったとして警視庁を訴え、5万ポンドの賠償金を受け取った。
黒人市民と警察当局との間の不信感は、その後も消えなかった。
ノッティングヒル・カーニバルは1958年の人種暴動への反省を1つの契機として生まれたものだが、1976年、フェスティバルの最中に暴動が発生し、100人以上の警官が負傷した。1980年代には南ロンドン・ブリクストンで同様の衝突・暴動が発生している。
スティーブン・ローレンス事件
1993年、18歳の黒人青年スティーブン・ローレンスが、人種差別主義者と思われる白人男性ら数人に暴行を受けて、亡くなった事件は、英国でよく知られている。
1999年、この事件を調査したマクファーソン報告書は、ロンドン警視庁が「組織として人種差別主義的だ」と弾劾した。
2012年1月上旬、2人の白人男性が殺人罪で有罪となった。ローレンス事件で容疑者に有罪判決が下った(終身刑)のはこれが初めてだ。何度となく裁判まで持ち込んだが、いずれも「証拠不十分」とされていたのである。共犯者がいたと見られているが、有罪判決にまで持ち込めるかどうかの見込みは薄い。
特定の人種グループに対する差別的対応が垣間見える傾向は今も変わらない。何度も何度も、同じことが繰り返されている。
2018年4月末、ローレンス青年の死から25年。記念式典に出席したメイ首相(当時)は、毎年4月22日を「スティーブン・ローレンスの日」にする、と述べた。果たしてこれが何らかの抑止になっているのか。考える機会を与えてくれるのは確かだ。
ウィンドラッシュ事件
しかし、ちょうどこの頃、1948年から70年代初頭にかけて西インド諸島から英国にやって来た移民の子供たちが2014年の改正移民法の施行をきっかけに、「不法移民」として扱われていたことをガーディアン紙が暴露した。職を失う、社会保障を受けられない、国外退去を迫られるなどの困難に直面した(ウィンドラッシュ事件)。
差別的待遇はまだまだ続いた。
ブラック・ライブズ・マター
2020年5月末には、米国で発生した白人警官による黒人男性の暴行殺害事件をきっかけに、反人種差別運動「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大切だ)」が世界各国で広がったである。
英国でも差別に対する抗議運動が起き、歴史の見直しも行われている。
2020年11月、映画監督スティーブン・マックイーンとBBCはカリブ海出身者や黒人の日常をテーマに共同制作したテレビドラマ数本を放送した。ドラマの1つ「マングローブ」でマングローブ事件を取り上げた。(BBCによるマングローブ事件の紹介記事も掲載された。)
かつてマングローブ・レストランがあった「オールセインツ・ロード6-8」では、カリブ風料理を出す「ラム・キッチン」が営業中だ。
外壁には、ノッティングヒル・カーニバルの成長にも一役買ったクリッチロウを称える「ブループラーク」(銘板)が飾られている。この銘板は、非営利組織「ヌビアン・ジャク・コミュニティ・トラスト」が英国における黒人および少数民族の歴史的貢献を称えるために設置された。