新型コロナとの闘い~日本政府はガダルカナルの失敗を繰り返すのか~
米ニューヨーク州知事・クオモ氏は新型コロナウイルスとの闘いを「戦争」と表現した。その表現が正しければ、日本政府による新型コロナウイルスとの戦争は、あまりにも劣勢とみなされている。
致死率よりはるかに高いパニックに襲われつつある日本。「1住所につきマスク二枚送付」という失笑モノの政策を筆頭に、「和牛券・魚券構想」「Go to travel、Go to eat(ママ)券の検討」「全世帯への現金給付ではなく、条件付きの現金給付」「休業補償の不備」等々は、急速に進行するコロナウィルスという敵に対して「戦力の逐次投入」と批判されがちだ。
現下で進行する大経済不況の前哨に、政府の現在の対応で全く十分だ、と考える者の方が少ないだろう。
実に過去、日本は同じ過ちを繰り返している。いまから78年前。太平洋戦争中の1942年8月から行われたガダルカナル島をめぐる戦いで、大本営は圧倒的に優勢な米軍上陸部隊に対し、3たび「戦力の逐次投入」をして大敗。翌1943年2月には同島から撤退するに至った。それまで無敗を誇った日本陸軍の完全敗北である。これ以降、太平洋の戦局は物量で押す米軍へと急速に傾いていく。
あの戦いから78年。日本は再び歴史に対して盲目となり、同じ失敗を繰り返すのだろうか?
・小出しに戦力を投入して、3回同じことをやり失敗した日本軍
1941年12月8日、ハワイ真珠湾への奇襲で幕を開けた太平洋戦争は、同時にマレー半島コタバルに日本軍が上陸(南方作戦)することにより、わずか半年で大本営が初期目標としていた英領ビルマ、マレー、米自治領フィリピン、オランダ領インドネシア(蘭印)等の迅速な占領をすることに成功した。
1942年6月。ドゥーリットル空襲(米軍艦載機による日本本土発空襲)に触発されて企図されたミッドウェー作戦は、逆に攻勢側の日本海軍が空母4隻を失う(米側1隻沈没)という戦局の転換点になったものの、太平洋における大本営の関心は南太平洋の奥地(サモア・フィジー等)に進出するという野心的なものであった。
その前哨基地としてガダルカナル島に日本軍による小規模な飛行場が設営されたが、それが米軍上陸部隊により占領される。この小さな飛行場―同島北部のヘンダーソン飛行場をめぐる日米両軍の約半年にわたる激戦―が、いわゆるガダルカナルの戦いである。大本営はこの地域での米軍の対日反抗作戦を早くとも「1943年中旬以降」と勝手に予想していたが、米軍ガダルカナル上陸を知ると、すぐさま飛行場奪還に動いた。
ガダルカナル奪還の第一陣は、一木清直(いちき きよなお)大佐率いる一木支隊の900名(第17軍・百武晴吉陸軍中将隷下,以下同)で、夜陰に紛れて米軍の背側に上陸し、夜間白兵突撃で以て一挙に決着を図るというものである。おおむね1937年から開始された日中戦争で、日本軍は大陸戦線に於いてこの夜間白兵突撃で中国国民党軍等に対し一定の効果を上げていた。敵が蒋介石から米軍に代わっても、この戦法が通用すると踏んだのである。
当時軍は、ガダルカナルを占領した米軍兵力を約2-3000人程度と予想していたが、米第一海兵隊師団(バンデグリフト少将)の10,900名が、日本軍に対し数十倍の機関砲と自動小銃を持ち込んで待ち構えていた。1942年8月21日、夜襲を図った一木支隊はなす術もなく全滅。一木大佐は自決した。
ガダルカナル奪還の第二陣は、川口清健(かわぐち きよたけ)少将率いる川口支隊の6,200名。一木支隊より約7倍に増強されていたが、その間、敵米軍も増強され15,000名になり、日本軍をさらに優勢な火力で待ち構えていた。川口少将は一木支隊失敗の反省を踏まえてより長い迂回ルートを設定して奇襲を計画したが、ガダルカナルの鬱蒼としたジャングルに阻まれて各部隊間の連携が取れず、結局1942年9月12日夜、不連続な夜襲を決行してまたも米軍に一方的にやられた。
ガダルカナル奪還の第三陣は、南太平洋方面に展開する第17軍の主力の一つである第二師団(丸山政男中将)を中心としたもので、川口支隊の残存と合わせておおむね15,000名であり、さしもの東京の大本営も、続けざまの失敗を反省していよいよ本腰となり、大規模な輸送と兵力の増強計画で臨んだ。
さらに東京からは、参謀辻政信中佐と服部卓四郎作戦課長が現地で督戦等に当たる、という熱の入れようである。ところがここでも日本軍は間違いを犯す。敵米軍の兵力を「7-8,000、場合によっては10,000名に到達する可能性」と低く見積もった。実際、日本軍を殆ど完璧な体制で迎え撃つ準備を整えていた米軍は、この間更に輸送船で増強されており、総勢28,000名だった。
1942年10月24日、第二師団を中心として始まった総攻撃は、またしても米軍の圧倒的火力の前で惨敗した。同26日総攻撃は中止され、以後各残存部隊が同島各地で持久戦を展開し、翌年2月の撤退までジャングルの中を彷徨うこととなる。ガダルカナルの戦いでの日本軍死者、陸軍20,800名。海軍3,800名(共に戦史叢書より)の計約24,600名。一方、米軍の戦死者は約1,600名とされる。あまりにも無残な日本軍の戦いは、こうして3度同じ失敗を繰り返し繰り返し実行した、大本営の愚策中の愚策であった。
・気がついた時には「逐次投入」しかできなかった大本営
以上が「兵力の逐次投入」の代名詞として後世でも語り継がれるガダルカナルの戦いのほんの概略だが、では第一回目から万単位の兵を送っていたら戦局は違っていたのか、というとそうでもない。当時の日本陸軍は圧倒的に火力不足・装甲不足であり、仮に同数の米軍相手でも惨敗は必至だっただろう(だが、戦いが長引いた可能性は大である)。
大本営が2度の失敗を経ていよいよ危機感を募らせてガダルカナル奪還へ本腰を入れ始めたとき、つまり第三回目の奪還作戦である第二師団を中心とした総攻撃作戦(1942年10月)の前、大本営中枢では以下のように作戦に対する注意がなされている。
要するに敵米軍は、いままで常勝してきたアジア植民地における連合軍とは違うので、十分注意し、また兵力の逐次投入は不可で、一気呵成に米軍を叩き潰し、そのための準備はとことんやれーということを割合「きちんと」謳っているのである。
なぜこういった「まともな」決意をする割に、日本軍は三度敗れたのか。原因は、大本営が本格的に危機感を抱いたとき、時すでに遅く、彼らの「まともな」決意を実行するためのインフラが欠如していたことに他ならない。
1942年10月になると、ガダルカナル周辺の制空権は完全に米軍の手に渡り、日本軍の稼働戦闘機数は激減した。よって海上輸送は困難を極め、「敵は植民地軍では無いので注意せよ」といっても、そもそも十分な兵力や物資を送るだけの輸送行動が出来なかった(―大本営ではこの方面に近衛師団の転進も考えていたようだが実行は不可能だっただろう)。
そしてこの地域で「辛うじて」米海軍と拮抗していた日本海軍は、ガダルカナルの戦いとほとんど同時期に行われたサボ島沖海戦、数次にわたるソロモン沖海戦等で消耗し、主力の行動がままならず、十分な地上支援体制をとることが不可能だった。
つまり、「本気で戦おう」と思った時にはすべてが遅く、「本気で戦う」だけのインフラが尽きてしまった後だったのである。ガダルカナルの戦いは結果的には「戦力の逐次投入」となったが、少なくとも三回目の奪還作戦(1942年10月)は、彼らの中では戦力の逐次投入という発想では無かった。参謀総長をして「日米の決戦場」とハッキリ言っているのである。しかし、結果的に「戦力の逐次投入」になるしか、もう日本軍の体力は残されていなかったのだ。歴史の悲劇である。
・ガダルカナルの悲劇から学ぶべき”戦訓”
78年前の悲劇は、後世を生きる私たちにあまりにも多くのことを伝えている。
1)敵の兵力や性質をいたずらに過少評価しないこと
2)巨大な敵に対しては、最初から全力を以て対抗すること
3)「本気で戦おう」と重い腰を上げた時にはたいていの場合、その決意を実行するリソースが尽きているので注意すること
翻って新型コロナウイルスとの闘いがクオモ知事曰く「戦争」なのだとしたら、この戦訓は私たちへの示唆に富んでいる。2020年に入っての景気後退は確実である(―その前から日本経済は消費増税で足腰が弱っている)が、その後退局面は現在おおむね出発点の段階であり、まだ中央政府が対応するだけの余力が残されている。
日本の財政状況は決して良いとは言えないが、十分な外貨準備と政府資産等を持っており、「国民全員」に大胆な財政出動をするだけの余力はまだまだ残されていると筆者はみる。要するに増援可能な主兵力がまだ温存されている状態である。
本格的に景気が悪化し、GDP成長率、株価や企業の決算、失業率等の指標等が恐慌的となった時に「本格的にコロナ不況と戦おう」と決意したところでもう体力は残っていない。ガダルカナル四度目の攻撃は、失敗してはならないのである。(了)
参考資料『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<2>ガダルカナル・ブナ作戦』防衛庁防衛研究所戦史部著 朝雲新聞社