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【光る君へ】超イケメンなのになぜか「残念」な藤原氏随一の超エリートとは?(相関図・家系図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ・演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:江本佑)とのラブストーリー。

イケメンが次々登場する『光る君へ』ですが、ドラマの当初から涼やかな美男ぶりを振りまいているのが町田啓太さん演じる藤原公任(きんとう)です。

この人はイケメンなだけではなく、頭脳明晰で楽器も舞もできて、パーフェクト!なのです。ドラマの冒頭で、漢詩を涼やかに諳んじる彼を、ポカーンと見つめる道長が描かれました。

それなのに、なぜかこの人にまつわる逸話には「残念」なお話が多いのです。

啓太ファンにはちょっと酷かもしれませんが、ちょっと笑ってしまうお話ばかりなので、気軽にお読みいただければと思います。

◆藤原氏最大の栄華を築くはずだったのは、道長ではなく公任だった?

◎自分も父も祖父も嫡流(後継)の公任

まずは軽く、公任と道長の関係についてざっとおさらい。藤原氏北家の中で嫡流(直系=メインの血筋)は右の赤く囲った実頼の家・小野宮流です。公任は実頼の嫡男・頼忠(演:橋爪淳)のさらに嫡男という藤原嫡流のいわばサラブレッド。

そしてなんと道長と公任は966年生まれの同じ年!というわけで、さぞかしライバル意識バシバシ!だったかというと、そういうわけでもなく…

道長のほうは相当意識していたと伝わりますが、公任のほうはとくに、若年の頃はそうでもなかったと思われます。

藤原嫡流の公任に対して、道長は九条流という傍流の生まれ。祖父は次男、父は三男、さらに自身は五男である道長は、公任にとって物の数でもなかったはずだからです。

◎スタートから格差があった、公任と道長

道長と公任が980年、14~15歳で元服(げんぷく=成人の義)したころ、公任の父・頼忠が最高位である太政大臣だったのに対して、道長の父・兼家(演:段田安則)は3番手の右大臣に過ぎませんでした。

父の地位はそのまま子の地位に反映されます。公任は元服時に正五位下(しょうごいげ)に叙され、同時に殿上人(てんじょうびと)となりました。

殿上人とは、天皇の住む清涼殿の殿上間に昇ること(=昇殿)を許された中で、四位以下の人のこと。(三位以上の「公卿」ははほぼ全員のため殿上人とは呼びません)

当時は「天皇との距離」が出世に直結した時代だったため、「昇殿を許されること」は、貴族にとって最重要といえるミッションでした。

15歳で元服と同時にそのミッションをクリアしたのはおそらく当時最年少だといわれます。公任は、「輝かしい未来」を約束された超エリートだったのです。

ちなみに道長は元服時は従五位下(じゅうごいげ)で、公任より2段階下。道長が殿上人になったのは2年後の982年です。

道長の昇進も決して遅くはなかったのですが、公任よりはかなり遅れを取っていました。これはそのまま、当時の公任と道長の立場の差をあらわしています。

◎道長の器の大きさの伝わる逸話 

公任は家柄が良いだけでなく、すべての面で秀でていました。あまりの優秀さに、道長らの父・兼家は「我が子たちは公任どのに遠く呼ばない。せめて影くらい踏めないものか」と嘆いたといいます。

それを聞いた兄たちは黙っていましたが、一人道長だけは「影どころか、顔まで踏めるようになってみせます」と答えたと伝わります。

のちに「一の人(最高権力者)」となった道長の大器さを伝えるものとして『大鏡』に記載された逸話です。とはいえ、この頃の道長は本当に自分が公任を抜く日が来ると予想していたのでしょうか。

◆実は残念なイケメン?いちいち一言多い公任さん

◎姉は中宮になったけれど…

ドラマ冒頭では、円融天皇(演:坂東巳之助)中宮(天皇の正妃)の座を巡って、公任の姉・遵子(のぶこ・演:中村静香)と道長の姉・詮子(あきこ・演:吉田羊)が火花を散らしました。

ここで複雑なのが、時の帝・円融天皇との関係。円融天皇は兼家の甥に当たり、九条流は円融天皇の外戚です。公任の家は円融天皇の外戚ではなかったので、次世代の天皇の外戚となることは悲願でもあったでしょう。

道長の姉・詮子は円融天皇の皇子、懐仁親王(のちの一条天皇)を産みました。しかし、円融天皇は兼家を憎み、その娘である詮子も疎むように。このあたり、ドラマでは赤裸々に描かれましたね。

結局円融天皇は、皇子を産んだ詮子ではなく、子を産んでいない遵子を中宮に選びます。皇子の母ではない女御が中宮に立つのは非常にまれなことでした。

◎天皇の外戚になり損ねる

前置きが長くなりましたが、ここからが本番

さて、982年に遵子が中宮となって初めて参内したときのこと。姉につきそった公任は、詮子の実家である兼家の邸宅・東三条殿を通りかかりました。

ここで公任は、「こちらの女御(詮子のこと)は、いつ中宮になられるのかな」と言い放ったと伝わります。

まさに失言中の失言。なんでこんなこと言っちゃったんでしょう?おごれる者は久しからず…の『平家物語』はまだ先の話ですが、いつの世にも自分の天下を過信してしまう人はいたんですね。

公任は、詮子も兼家も敵に回すこととなります。当然ですよね。

結局、公任の姉の遵子は子を産むことはありませんでした。この話はこれだけでは終わりません。

◎大炎上並みの「セクハラ」にも言い返せない公任

986年には詮子の産んだ一条天皇(演:塩野瑛久)が即位。詮子は皇太后に、父の兼家は摂政となりました。中宮を経ずに皇太后となったのは稀なことですが、これで一足飛びに詮子は中宮・遵子の上に立ったのです。

詮子が皇太后として参内する日、なんと公任はお役目上、詮子の警備をすることになったのです。これは穏やかではありません。何か起こるぞ!と野次馬根性でワクワクする人もいたでしょうね。

はい、もちろん事件は起きました。

詮子の女房・進尚侍(しんのないし)が公任に向かって「姉上のスバラの后は、今日はどちらにおいででしょうか?」と尋ねたのです。

「スバラ=まだ子どもを産んでいない」だなんて、現代だったら「マタハラだ!」大炎上するでしょうが、そもそも公任の失言の仕返しです。彼は言い返すこともできなかったといいます。

言い返せなかったのは、立場が変わってしまったからでもありますね。一条天皇の即位と同時に、政治の中枢は兼家の九条流に移り、両家の立場は逆転しました。

この件で何かと世間に騒がれてかわいそうだったのは、姉の遵子です。これは残念な弟のせいだといわねばなりません。

中宮定子(演:高畑充希)もそうですが、この時代、残念な兄弟を持つ女性は大変でした。(関連記事:「【光る君へ】道隆の子・伊周は絶世のイケメンなのに「残念」な理由(家系図)」2024年3月25日)

◆「紫式部日記」に登場!残念な?公任発言の「役割」

◎「若紫」はどこに?

『光る君へ』の主人公で『源氏物語』の作者・紫式部は『紫式部日記』を書き残しています。『日記』といっても、現代のわたしたちの感覚とは異なり、のちの世の人に向けて残すために書かれた「記録」と考えていいもの。

紫式部は、一条天皇の中宮・彰子(あきこ・演:見上愛)の女房(兼 家庭教師)になります。その彰子の出産を記録する係となって1008年ごろから書き始めたのがこの日記です。

彰子の産んだ皇子の誕生50日のお祝いの席で、式部は得意の観察眼を発揮し、公卿たちのふるまいを細かに記載しています。

気になる公任の発言はこうでした。酔っぱらって女房たちのところへきて、「失礼、このあたりに若紫さんはおいでかな?」と尋ねたのです。

どうやら紫式部を探しに来たようなのですが、式部の反応はといえば「ガン無視」です。

「ここは酔っ払いだらけで源氏の君みたいな素敵な人もいないのに、紫の上なんているわけないわ」(意訳)と書いています。

◎紫式部の心中は?

ご承知の通り、「若紫」は、『源氏物語』のヒロイン・紫の上の少女時代(10歳くらい)の呼び名です。こう呼びかけられた紫式部の年齢は30代後半くらいだったとみられています。

現代にあてはめてみると、30代後半の女性を「公式の場」「幼いあだ名」や「ちゃんづけ」で呼びかけるのは微妙です。

さらに、当時は平均寿命が30歳くらいで、40歳で「初老のお祝い」をしていました。30代後半は初老の一歩手前、現代なら50代くらいの感覚でしょうか。微妙どころではありませんね。

もし自分が紫式部だったらと考えると「うわ、勘弁してよ」と思いますね。

そもそも紫式部は周りとの軋轢を極端に嫌がり清少納言のように自分の才能をひけらかしたりはしません。そんな紫式部が「若紫」と呼ばれてホイホイ出ていくわけはないのです。

また、この話には異説として、公任は「我が紫」と呼びかけたとも考えられるといいます。(かな文学では「濁点」は省略されるものなので)。そうなると「俺の紫はいるかい?」という意味になり、まったく状況が変わってきます。

女房は高貴な家の子女がなるものではないとされ、「お気軽」に男性から声をかけられやすい立場でした。

現代でいえば、水商売の女性をなれなれしく「俺の〇〇ちゃん」と呼んだりする感覚でしょうか。でもここは、中宮さまもいらっしゃる場なのです。軽口が過ぎますよね。

紫式部は前述の公任の失言も聞き及んでいて、「なんだかなぁ」と思っていたとも考えられます。なお、同じ宴会で、式部は実資(演:秋山竜次)には自分から話しかけて、高く評価しています。

◎公任の「若紫」発言でわかること

公任のこの発言のお陰で、後世のわたしたちに伝わったこと2つがあります。

1つは『源氏物語』の作者が紫式部だということ。

実は、『源氏物語』を紫式部が書いたことが伝わるのは、この『紫式部日記』の記述だけなのです。この「若紫」のエピソードはその一つ。ここに公任のセリフとして「若紫」と書かれていることは、非常に重要なことなのです。

2つ目は『源氏物語』を公任のような一流の文化人である「男性」も愛読していたということ。

当時は「かな文学」は「おんな子どもの読み物」、現代風にいえば「サブカルチャー」だとされていました。しかしそのかな文学である『源氏物語』は、それらとは一線を画した「漢詩」などの「メインカルチャー」と同等に評価されていたということです。

式部もその場では返事をしなかったものの、公任が読んでくれていたこと自体はうれしく日記に遺したと考えられます。

では、このあたりに全体家系図を置いておきますね!

◆晩年の公任

◎一条期の四納言(しなごん)

さて、ここからはマジメなお話。ネタバレでもあるのでご注意を!

若い頃は道長よりはるかに出世の早かった公任ですが、986年、道長の父・兼家が実権を握ってからは、瞬く間に道長に位階を追い越され、差は開くばかりとなります。

失言で兼家の怒りを買っていたので、仕方ないともいえますよね…

996年には、ついに道長が藤長者となり、左大臣に上ります。公任は権大納言(※)となり、「一条期の四納言」の一人として道長政権を支えました。

四納言のメンバーは以下の通り。公任以外は九条流の血筋ばかりです。

藤原公任…道長と同じ年。道長のまたいとこ
藤原斉信(ただのぶ・演:金田哲)…公任・道長より一歳下。道長の従弟
藤原行成(ゆきなり・演:渡辺大知)…最年少。能書家。道長の従兄の子
源俊賢(としかた・演:本田大輔)…最年長。道長の妻・明子の異母兄。道長の従兄

※権大納言の「権(ごん)」とは「仮」の意味です。正規の大納言には定員があり、役職が足りなくなったため、その下に「権(仮)大納言」が置かれました。

◎明暗を分けた「小野宮流」の公任と実資

道長は最終的に従一位・摂政・太政大臣(最高位)までのぼります。同世代の貴族青年のトップをひた走ってきた公任は、正二位・権大納言まで。最終的には大臣になれなかったのです。

祖父も父も関白・太政大臣を務め、藤原氏の嫡流としての自負もあったであろう公任。

公任は「自分の出世もここまで」と、失意のうちに60歳で出家。1041年に76歳で薨去します。四納言の中では一番長命でした。

なぜ公任は予定通りの出世コースを歩めなかったのでしょうか?小野宮流が傍流になったから、とはいえ、同じ小野宮流で従兄の実資は、右大臣までのぼりました。

公任は自分の家系の勢力に限界を感じると、道兼や道長に近づいて生き残りを図りました。それでも彼は大臣になれず、終始道長や九条流に批判的だった実資を、道長が重用し続けたのはなぜなのか?

信頼は行動の積み重ねで生まれるもの。失言が重なると相手を怒らせるだけでなく、信頼されなくなります。

実資も痛烈な批判で道長を怒らせてきたはずですが、それでも「絶対的な信頼感」のあることが、実資と公任の違い、だったのかもしれませんね。

(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)

主要参考文献

フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)

ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)

紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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