舞鶴海洋気象台が廃止 「有人」気象観測の意味とは
きょう10月1日は、下半期の始まりの日。皆さんの職場などでも、新たなスタートを切られるようなことが多いかもしれません。気象庁でも大きな変化がありました。各地の気象台などの組織改編が行われ、そのなかには「舞鶴海洋気象台」の廃止もあります。
10月1日の気象庁の組織改編
気象庁では、きょう10月1日から体制が変わりました。そもそも、気象庁は国土交通省の外局ですが、その気象庁本庁の下に地方支分部局として、全国各地の「気象台」や「測候所」が属しています。
今回の組織改編では、これまで4つあった「海洋気象台」のうち、函館・神戸・長崎はすべて「地方気象台」になり、舞鶴は「廃止」されました。
また、大阪や福岡などにある「管区気象台」にある技術部が気象防災部に変更されたり、各地の地方気象台(高松など中枢官署を除く)にあった技術課・防災業務課などの課が廃止されたりと、細かな改編も多くあります。
海洋気象台の廃止
これまで全国に4つあった海洋気象台は、前述の通り、大きな再編をされました。海洋気象台で担ってきた海上予報・海上警報などのいわば「海の天気予報」は、すでに別の気象台で行われるように業務移行が進められていましたが、今般、制度上もいよいよ「海洋気象台」が無くなった、ということになります。海洋気象台はなくなりますが、陸上・沿岸の気象情報と海上の気象情報の作成・発表を同じ気象台で一体となって行うことによって、一層の防災効果を高める狙いがあると言われています。
なお、海洋気象台の大きな業務のひとつであった「海洋気象観測船」による観測については本庁集約の方針のもと、すでに全国の海洋気象台に5隻あった観測船が本庁所属の2隻(凌風丸・啓風丸)だけになっていました。海洋気象台としての今後の方向性はすでに定まっていた感がありますが、こと舞鶴に関してはついに「気象台」としての役割も終えたことになります。京都府にはかねてから京都地方気象台(京都市)も同じ府内にあり、京都府の天気予報や警報などの業務もすでに京都地方気象台に移管が済まされていました。
気象庁の気象観測ネットワーク
舞鶴海洋気象台は、京都府北部の舞鶴西港にある港湾合同庁舎(海上保安本部なども入居)にありました。今回の海洋気象台廃止を見越して、気象台職員による有人観測は3月末をもってすでに先行して終了し、今は気温や降水量などの自動観測(これは有人観測の場合であってもほぼ同様の観測方法です)のみが行われています。
気象庁の全国の気象観測網は世界に誇れる素晴らしいネットワークで、降水量の観測点は全国に約1,300か所もあります。その名称は「アメダス」と言えば、皆さんも耳にしたことがあるでしょう。全国の約17km四方に1か所の間隔で設置されていますので、皆さんの家の近くにもあるかもしれません。
このうち、気象庁職員が常駐している観測点は約60か所(気象台・測候所などの「気象官署」。航空官署も含む)。つまり、ほとんどが無人の自動観測所で、日々の気温・降水量・風向風速などの観測が続けられていることになります。もちろん、気象台職員による定期的な点検が行われており、無人であっても観測が問題なく続けられるように配慮がされています。
「無人化」なぜ進む
無人の自動観測であってもこれほど十分に観測を続けられるなら、人件費もかかるし、すべて無人化すれば良いのに…と考える向きもあるかと思います。もちろん、各地の気象官署では観測だけをしているのではなくて、気象警報・注意報や天気予報の作成・発表、防災情報についての地元自治体との調整など、ほかの重要な業務もあるため、そうはいきません。
「人件費もかかるし…」という点は、昨今の国の行財政事情により大きく意識され、気象台の「無人化」の主な一因であることは間違いありません。「防災上、無人化しても問題ない」と判断されれば、その観測所での気象台職員の常駐がなくなる、というわけです。
実は、気象官署の無人化は今に始まった話ではありません。今は帯広(北海道)と名瀬(鹿児島県)の2つしかなくなった「測候所」は、かつては全国に約90か所もありました(航空測候所を除く)。関東地方では千葉・秩父・館山・日光など、近畿地方では洲本・豊岡・潮岬などが挙げられます。
これらの測候所は(かつては予報をしていた所もありましたが)天気予報などは行わず解説官署として、地元自治体への予報・警報事項の解説やその地点での気象観測を行っていましたが、10数年前から順次廃止され、今に至っています。これらの元・測候所は「特別地域気象観測所」という名称で、通常のアメダス観測点よりも高度な観測機器が設置され、自動観測を続けています。
ネットワークの1点としての意味では、気温や降水量などのデータが問題なく送信されてくるのであれば、「防災上、問題はない」と私も感じます。また、気象レーダーや気象衛星といった観測設備の高度化・発展の意味合いからも、人をわざわざ配置する必要は必ずしもない、という論理もある程度理解できます。
ただし、地元の防災拠点のひとつという意味や、有人観測でしかできないことという観点からは「バッサバッサと切り捨てていって本当に良いのか?」という印象も受けます。
そもそも、こうした気象台・測候所の無人化について、どれほど大きな議論になったのでしょうか。この分野のオピニオンリーダーであるべき私たち気象解説者の責任も重いと痛感します。
有人観測でしかできないこと
無人化してもできることは、前述のとおり、気温・降水量・風向風速・日照時間など、機器による自動観測です。最近は機器や解析技術の工夫や進歩もあり、自動で視程(水平方向の見通し)を観測したりできるなど、人間がいなくてもできることは、正直、かなり増えています。
一方、人間がその場にいないとできない観測もあります。いわゆる「目視」や「聴覚」などによる観測がその部類です。
空に浮かぶ雲の種類や量などは、人間が空を見上げて観察しないと分かりません。雲の分類は、専門的には上・中・下層の3層ごとに10パターン(雲が無い場合も含む)。その組み合わせですから、単純計算ですが10×10×10=1,000パターンもあります。さらにはその雲の量についてもそれぞれの高度で観察するため、もっともっと沢山の空の表情があるわけで、その「一度しかない今の空」を世界各地で記録し、後世に残しています。
ライブカメラでこうした観測を自動で進める技術の開発も進められているようですが、まだ人間の目による観察にはかなわない、と思います。
また、特殊な現象についても、人間による観測で記録が残されます。ひょうや竜巻といった激しい現象もそれに当たります。ひょうは、平たく言えば、「空から降ってきた、直径5mm以上の氷の粒」。5mm未満は「あられ」と言います(このあられも、本当はもっと細かく「氷あられ」「雪あられ」と分類されます)。気象台でひょうが降っているのを職員が確認すれば、「何時何分から何時何分まで、ひょうを観測。直径○mm。」という形で記録が残され、それが部外にも通報され、防災情報として役立てられます。
竜巻についても同様です。気象台から職員が積乱雲の下にのびる「竜巻」を目撃した場合、例えば「南西2kmの海上、東へ進み、5分後に消滅」など、正式な観測として迅速に通報され利用されます(もちろん、被害が出ていれば、後刻現地調査を行うなどすることになります)。
初雪・初霜・初氷・初冠雪など、業界では「初モノ」と呼ばれる現象もそうです。気温が何℃、降水量が何mmというのは無人化しても数字として分かりますが、降っているものが雨なのか・みぞれ(雨と雪の混在)なのか・雪なのか、については、現地の人の目で確かめるしか方法がありません。気温や湿度などほんのわずかの気象条件の違いで雨が雪になったりするようすは、人間による現状把握が予報する上でも非常に重要になります。
特に舞鶴に関しては、近畿地方では唯一の日本海側の有人官署でした(滋賀県の彦根も日本海側と扱われますが、北に低いながらも山脈があり、厳密には毛色がやや異なります)。近畿では冬場の「初雪」の観測は彦根や京都を待つほかなく、日本海側の初雪が平年より早いのか遅いのかといった統計的な比較も容易にはできなくなります。その意味で、季節の進行を把握する手段をひとつ失ったといっても過言ではありません。
同様に、季節の遅れ進みを把握する観測に「生物季節観測」があります。皆さんご存知の「ソメイヨシノ(桜)の開花」や「ツバメの初見」「クマゼミの初鳴」など、動植物の様子から季節の進行を知ろう、統計に残そうという観測ですが、これも無人化されると、記録が残されなくなります。
ソメイヨシノの観測については、地元の観光協会やNPOなどが引き継いで観測を続けている観測点もあるようですが、決して多くはありません。古い所では1953年から観測が続けられている統計が終了となります。
有人観測でしかできないことには、身近な観測も含め、こうしたさまざまなデータが含まれています。そして、いったん記録を止めてしまうと、その止めている期間の観測結果は、もう二度と取り戻すことができないのです。
有人観測は必要なのか?
気象庁の年間予算は600億円弱。国民一人当たり、1年間で600円くらいになります。気象業界でよく言われるのが「コーヒー予算」。喫茶店でちょっと高価なコーヒーのセットを頼む程度の予算で、全国の気象観測網が維持され、注意報・警報や天気予報が日々休むことなく発信され、国民の生命・財産を守る努力が続けられている、というわけです。これを、高いとみるか、安いとみるか。
また、緊急地震速報や次世代気象衛星、特別警報の運用など、最新鋭の技術を開発・導入・維持するための新規予算を拡充するのはなかなか難しく、そのためにはどこかで予算を削らなければ…というのが実情です。その際に、「防災上、問題ない」という観点で、限りある予算を配分する優先順位として、有人観測の廃止拡大という選択肢をとることも仕方のない面があると考えます。
ただ、私は、そうした議論が本当に十分に広く行われてきたのかが疑問に思えてなりません。日本で最も古い気象観測所は、図らずも今回「海洋気象台」から「地方気象台」に改編された函館で、観測開始は1872年。多くの気象台は戦前からの60年、70年以上にわたる綿々たる有人観測の歴史を持っています。その日々の観測の記録を私たちの代で途絶えさせて良いのか、自動観測のデータのみにして良いのか、十分な検討はなされたのでしょうか。地元の防災拠点のひとつが無人化され、別の気象台から電話で対応します、というだけで十分な「安心」は得られるのでしょうか。舞鶴海洋気象台が廃止される話は地元ではご存知の方も少なくないかと思いますが、そのほかの地域の方々にとっては、初めて耳にしたという方も多いでしょう。
限りある予算ですから、優先させなければならない事業も当然沢山あるでしょう。しっかりと吟味し、本当に必要なものに対して大切に使うべきです。ただし、有人の気象観測業務がここまで軽々と切り捨てられてしまう業務とは、私には断じて思えないのです。有人観測は本当に必要なのか。ひいては、今後の気象業務のあり方について、皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。主権者である私たち一人ひとりが、しっかりと考えたいものです。