樋口尚文の千夜千本 第101夜「幼な子われらに生まれ」(三島有紀子監督)
問いかけといらだちのの漸進的斜行
くたびれて家庭に帰還する勤め人が、家庭人に戻るイニシエーションのように斜行エレベーターに乗る、という設定があまりにも面白い。これはなにげなくもとても映画的な含みある光景で、これを観ていると萩原朔太郎の「人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。」という一行詩を思い出した。そういえば、本作の脚本の荒井晴彦が若き日に手がけた映画『不連続殺人事件』は坂口安吾の原作なのに、なぜか冒頭にこの詩が引用されていた。
長い長い斜行エレベーターにそって無機的なニュータウンがある風景は、未来的でカッコいいというよりも、家庭の幸福や絆といった幻想が待ち受けるアルカトラズ牢獄のようにも見える。ひじょうに面白いのは、主人公の浅野忠信がリストラで出向した工場でうんざりしているのはもとより、このエレベーターで斜めに上昇して(この斜めさがほんのりと滑稽で哀しい)一見ほんわかとした家庭に戻っても、なにか自由を封じられている感じがすることである。
その家庭の内外に一貫して微弱につづく不自由さをいかんともし難い浅野忠信の表情がすばらしい。何もない時はとてもいい家庭人なのに、再婚した妻の連れ子に拒絶され、リストラで心が弱っていることで、ついついみっともないくらいキレてしまう父親像が鮮やかだ。妻の田中麗奈はその浅野の突沸ぶりに狼狽するが、いつも平静な顔してためこむだけためこんでいるからこぞ堰をきったように、ほとんど幼児的に壊れてしまう。そのへんの計算がなかなか細かい。
また、対する妻の田中麗奈が稀有なすばらしさだ。かつての『はつ恋』のような原石の魅力を発散させていた田中麗奈は、近年はその清新さにいいあんばいのスキルが加わって『葛城事件』などでも際立っていたが、本作では実に平凡に幸福を志向する平均的な主婦に扮して出色だった。思えばここまでアクがなく振幅もない役柄というのもなかなかお目にかかれないし、またそういう何も目覚ましいことをしない役柄にあって最もみずみずしいけはいを醸す女優というのも、当節田中麗奈をおいて考えにくいかもしれない。というほどに、ここでは何らの小芝居よりもちょっとした田中麗奈の表情やしぐさの原石的な(!)魅力がものを言っている。
こうした俳優たちそれぞれのポテンシャルを存分に発揮させてみせた三島有紀子監督の演出は、同様に脚本に関してもその本来的な強さを無駄な粉飾なしにじわじわと引き出している。あらかじめ自らの作家性をあてがうのではなく、人と物語が内在させる魅力を引っ張り出す演出のタフネスも、監督のフィルモグラフィにあってはひとつの突出点であった。
しかしこの作品は、子どもたちが不安定になって家庭を崩壊させかける物語では決してない。浅野忠信は出来過ぎた前の妻(寺島しのぶ)とうまくやれなかった点で、田中麗奈はDVに走る前の夫(宮藤官九郎が好演)を不明にも選んでしまった点において、それぞれがダメな人なのであり、そのダメさゆえに甘い観測で懲りずに再婚してしまったふたりなのだ。そして子どもたちは、まさにその甘さをこそ容赦なく試し、鍛えまくることで、ダメ夫婦のふたりを成長させる。こんなオトナ子どもだらけの社会で、自然にオトナになる出来た人間などおらず、オトナは子どもによって無理やりオトナにさせられるのだ、ということを本作は正しく描いている。