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【「鬼滅の刃」を読む】江戸時代の吉原の遊女は、どんな1日を過ごしたのか(後編)

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
花魁の生活は、決して楽ではなかった。(提供:アフロ)

 「鬼滅の刃」遊郭編は、煌びやかな遊郭の情景を描いている。「遊郭編」の予備知識として、吉原の遊女はどんな1日を過ごしたのか紹介することにしよう。今回は後編である。

 なお、前編はこちらから。

■花魁(おいらん)道中

 吉原といえば、吉原の仲の町で行われる花魁道中である。花魁は高さ約15~18cmの黒塗りの下駄を履き、外八文字という歩き方で、ゆっくり練り歩いた。

 花魁には2人の禿(かむろ)が付き従い、大きな傘を掲げた奉公人や新造(若い見習いの遊女)もあとに続いたのである。

 なお、妓楼(遊郭)で遊ぶ場合、客は必ずこの引手茶屋を通す必要があった。花魁は引手茶屋の店先で顔見せをし、客が花魁を指名すると、引手茶屋で少し酒を飲み、やがて妓楼へ宴席を移した。

■1日の終わり

 午後10時頃になると、吉原唯一の出入り口の大門が閉門。午前0時頃には、妓楼も店終いするが、遊女は客の相手をしなければならなかった。

 床入りの時間は、午前2時頃だった。客は高級遊女の個室、下級遊女なら廻し部屋という大部屋で遊女が来るのを待った。

 そして、朝を迎えると、ようやく遊女の1日は終わる。ちなみに逃亡の恐れがあるので、遊女が吉原の外へ出ることは禁止されていた。

■遊女の引退時期

 遊女の引退年齢は、おおむね20代後半である。その間、金持ちの客が遊女の借金を肩代わりしてくれたら、早く引退できた(身請け)。

 その額は下級の遊女で40~50両(約520~650万円)、中級クラスなら100両(約1300万円)といわれている。

 トップクラスの花魁になると、1000両(約1億3000万円)以上の身請金が必要だった。

 年季が明けても、借金のある遊女は多かった。その場合は、そのまま妓楼に残って、花魁の雑用をしたり、遊女の管理などをする仕事に就くこともあった。

 しかし、多くは岡場所などで色を売ったり、夜鷹として仕事を続けざるを得なかった。もはや普通の仕事に就くのは困難で、再び体を売る生活に戻ったのだ。

 一方、体を売る仕事は負担が多かった。今のように医学が発達していなかったので、性病に罹ればそのまま死に至ることも珍しくなかったのだ。

■まとめ

 遊女もトップクラスの花魁になれば、生活が安定したかもしれないが、下級クラスでは厳しかった。親の借金を肩代わりしたまま、無念にも生涯を閉じる女性も多くいたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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