『鬼滅の刃』に見る、永く醜く続けるよりも濃く短く散るという思想
2020年7月3日、吾峠呼世晴『鬼滅の刃』21巻が発売された。「週刊少年ジャンプ」では既に連載は終了し、コミックスは23巻で完結する。2019年のTVアニメ放送に伴い人気が爆発し、21巻は初版300万部、累計8000万部に及ぶにもかかわらず、物語は終わった。
もちろんこのあと劇場用アニメ公開が控えているし、ノベライズの刊行など関連商品の展開はまだ続くようだが、ともあれ本編は閉じた。
この思い切りのよさ、人気・売上に執着しないかに見える作家の姿勢は、19巻から21巻までで展開された、鬼殺隊と"上弦の壱"との戦いで語られる思想とパラレルだ。
一応最大限ストーリー上のネタバレは避けて記述していくが、気になる方は21巻まで読んでから本稿を読まれることを推奨する。
■絶頂期を維持するために永く醜く生きるのか? それとも――
『鬼滅の刃』では鬼と呼ばれる元・人間の不死者と、首を斬り落とすことで鬼を殺せるよう特殊な訓練を積んだ人間たちの部隊・鬼殺隊の争いが描かれる。
主人公たちは鬼殺隊側であり、その目的はすべての鬼を作り出してきた鬼舞辻無惨の打破である。
鬼舞辻の直属の配下には下弦、上弦という最強クラスの存在がおり、六名ずついる下弦・上弦のなかでもそれぞれ参より弐、弐より壱と数字が若い方がランクが高い(=強い)。
物語終盤戦である19巻から21巻までは"上弦の壱”と鬼殺隊の戦いが描かれる。
鬼舞辻によって半永久的な命を与えられた上弦の壱は、対戦相手となる鬼殺隊の猛者に問いかける。
ところが返答は「思わない」なのである。
手に入れた強さをさらに増し、永遠に生きることを選んだが、異形の姿となった鬼。
短命であることを厭わず、次々に命を散らして次の世代の仲間に托していく鬼殺隊。
醜く永く生きるか、美しく強く儚い命を燃やすか――この対比が描かれていく。
20巻で、ある人物は語る。
こういう思想を描いていく『鬼滅の刃』が、いくら人気絶頂だからと言ってだらだらと物語を引き延ばすはずがないのである。
■凝集力で勝負したストーリーマンガ
『鬼滅の刃』は序盤を除けば物語が進むテンポが速い。
TVアニメでは何話も費やして大きな見せ場となった蜘蛛鬼一家との戦いも、原作マンガではぎゅっと凝縮して描かれている。
どんな山場であっても「ひとつの戦いを描くのにどんだけ話数使ってるんだ」ということがない。
1話あたりの密度が濃いのである。
そうするためにか、たとえばバトルマンガのなかでは見開きの使用や1ページまるまる使った作画は禁欲的な方であり、ここぞというときしか使っていない。
戦闘の場面でさえ、斜めのコマを多用して動きを表現しながら1ページ3、4コマ以上のコマ割りにして話をザクザク進めていく。
たとえば上弦の壱は新技を次々繰り出していくが、ひとつの技で1話分使って見せ場を作ってもいいくらいなのに、3ページで2つ出していたりする。
また、『鬼滅』では鬼や鬼殺隊員が死ぬときには人生を振り返るシーンが挿入されるのがパターンとなっているが、これも1話分丸々費やしてもよさそうなところを、わずか数ページに凝縮して描いてしまうことすらある。
音楽でいえばネット出身の歌い手の楽曲やK-POPがそうであるように、『鬼滅の刃』も尺あたりの情報量と刺激が非常に多い。
これは消費速度が速く、強い刺激が求められがちで、人々の時間が足りないこの時代に合っている。
短いからこそ繰り返し楽しみやすいし、短い中に詰め込んでまとめているがゆえに、逆に余白が大きい。
すべてを丁寧に描き切るのではなく圧縮して表現しているからこそ、読者それぞれの解釈が入り込む余地が大きい――リアル空間やSNSでその余白について語りたくさせるものでもある。
『鬼滅の刃』は物語で語られる思想としても、表現形態としても、濃く、短く、速く――美しく散ることを選んだ作品だった。