英国の猛スピードのワクチン接種はコロナ危機の出口戦略となるか(下)
英国でロックダウン(都市封鎖)の出口戦略の議論が始まる中、英国メディアを騒然とさせる出来事が起きた。EU(欧州連合)が1月25日、米医薬品大手ファイザーのベルギー工場から同社製の新型コロナワクチンの英国への輸出を規制することを決めたのだ。「英製薬大手アストラゼネカがEU域内のサプライチェーンの問題で生産が遅れ、EUへの1-3月期の供給量を60%削減すると通告したことに怒りを露わにしたものだ」と英紙デイリー・テレグラフが報じた。もし、アストラゼネカの通告通りになれば、EUは3月末までに加盟27カ国に8000万回分のワクチンを供給する計画だったが、3100万回分に激減するため、EUにとっては死活問題だからだ。一方、EUの輸出規制の決定に対し、英国議会は、「EUが自分たちの失敗を転嫁している」(同紙)と語気を強めており、国際紛争に発展する恐れが出てきた。
一時、EUはその基本法であるリスボン条約の第122条を発動し、アストラゼネカと他のビッグファーマ(巨大製薬会社)に対し、EU域内でのワクチン生産を直接の管理下に置き、知的所有権やデータを押収するとの観測が英国で広がった。第122条は物資供給がかなり厳しくなった場合、または天然災害や制御不可能な困難な状況が起きた場合、それによって加盟国が厳しい困難に直面する恐れがある場合に適用されるものだ。
テレグラフ紙のアンブローズ・エバンス・プリチャード国際経済部デスクは1月29日付電子版で、「これは戦時下の体制と同じだ。EUはワクチン開発プログラムに1人当たりGDP(国内総生産)の7分の1しか資金を出していない。また、EUは昨年の1年間、ビッグファーマを敵扱いし、ワクチン開発の緊急性に対応しようとしなかった。その結果、フランスやスペイン、ポルトガル、ドイツにはワクチンセンターが設けられていない。これは過去11カ月にわたるワクチン計画の失敗を示す」と厳しく批判する。
また、同氏は、「ベルギーの国際商工会議所が英国へのワクチン輸出を禁止すれば、英国から報復され、既存のサプライチェーンを危うくすると懸念している。また、ベルギー政府はアストラゼネカのベルギー工場への立ち入り調査で協力したが、それによって、ベルギーはバイオテクや医薬品の拠点としての名声を危険にさらすことになる」とも指摘。さらに、「EUは米ファイザー製ワクチンを英国に輸出するのを禁止できるが、もしそうすれば、EUが英国で今後、生産される米製薬大手ノババックスや仏製薬大手バルネバのワクチンを必要になる可能性があることを考えれば、輸出禁止は思慮がない」と見る。
結局、EUはワクチンの輸出規制の対象外とする90カ国を発表したが、これはリスボン条約第122条の発動ではなく、同条約207条(共通通商政策に関するEU権限を規定)に基づいて、欧州議会が2015年3月に承認したEU域内から第3国への輸出を監視するセーフガード措置(Regulation 2015/479)だった。EUは英国を規制対象とした上で、アストラゼネカに対し、最大5000万回分のワクチンをEUに供給するよう迫っている。
これに対し、アストラゼネカは、「欧州工場の1カ所でも問題が起きて供給不足になった場合、それを穴埋めするため、他国で生産されたワクチンをEUに回す義務はない」とし、「英国内の2工場で生産されたワクチンは英政府に1億回分の供給が完了したあと、EUに輸出する」とEUに通告したが、EU側は、「アストラゼネカの英国工場はEUの一部として扱われるべきだ」(1月29日付テレグラフ紙)と反論し、これを拒否した。「このため、アストラゼネカが譲歩し、「3月までにEUに900万回分を供給すると約束。これでEUには計4000万回分が供給されることになったが、EUは5000万回分を要求しているため、最後の手段として、英国へのワクチン供給を規制する措置に動いた」(1月31日の英放送局BBC)というのが実態だ。
英国がEUのワクチン輸出規制の例外国に入らなかった結果、アストラゼネカのEUへのワクチン供給の削減の報復として、ベルギーで生産されるファイザー製ワクチンの英国への輸出が阻止する可能性が出てきた。EUは第三国へのワクチン輸出の透明性が欠けているため、ワクチン輸出に対してはEU加盟国による承認が必要になるとの立場だ。ただ、EUは北アイルランド経由で英国本土にワクチンが輸出されるという抜け道を塞ぐため、昨年12月末に英国と結んだEU離脱協定にある北アイルランドプロトコル(条項)の第16条(セーフガード条項)を一方的に発動し、EU加盟国であるアイルランド共和国(南アイルランド)から英国領北アイルランドへのワクチン輸出を規制すると発表した。しかし、これは一方的に北アイルランドプロトコルを棚上げにし、南北アイルランドにハードボーダーを築くことを意味する。
もともと、北アイルランドプロトコルは北アイルランドが英国のEU離脱の今年1月以降もEUの関税同盟と単一市場に残り、アイルランド共和国との貿易はこれまで通りハードボーダーを回避する代わり、北アイルランドと英国本土の貿易はEUの税関検査など国境管理下に置くというものだ。ただ、北アイルランドと英国本土の間の物資輸送を円滑にするための猶予期間を置くことにより、激変緩和を保証している。
このため、EUが北アイルランドを英国本土と一緒にワクチン輸出の監視対象国に含めるとしたことは、南北アイルランドの間にハードボーダーを設けるもので、いわゆるフライデー合意(1998年4月10日に英国とアイルランド共和国の間で結ばれた、英国の北アイルランド6州の領有権主張を認めた合意)が損われるとして、英国はもちろん、北アイルランドやアイルランド共和国から総スカンを受けた。結局、EUは朝改暮令ですぐに北アイルランドへの輸出規制を撤回し、北アイルランドプロトコルに悪影響が及ばないよう約束するという、お粗末な結果に終わっている。
こうした英国とEUのワクチン戦争に対し、スウェーデンのカール・ビルド元首相(現在、欧州委員会外交関係委員会の共同委員長)は、「EUが世界をワクチン民族主義への道に進めさせないよう願っていた(が、そうならなかった)。EUの過去の成功の歴史は開かれたバリューチェーン(企業活動によって生み出される価値の連鎖)である」(1月29日付テレグラフ紙)と失望を露わにした。また、英国のカンタベリー大司教も、「ワクチン輸出を規制する事は、EUの基本的な倫理を損なう」(同)と警告。EUは他の国と共同して行動する必要があるとしている。
話は変わるが、英国議会で英国本土と北アイルランド間の物資移動で関税チェックを受けることへの批判が強まっていることを受け、マイケル・ゴーブ内閣府担当大臣は2月3日、EU欧州委員会のマロシュ・シェフチョビッチ副委員長に書簡を送り、関税チェックを離脱後3-6カ月間猶予するとしたEUとの合意を2023年1月まで2年間延長するよう要求した。この猶予期間は英国本土から北アイルランドのスーパーへの食料品の供給に支障が生じないようにするものだ。
その直後、ボリス・ジョンソン英首相は2月3日、下院で行われた一般議員から首相への質疑応答(PMQs)で、「今度は英国が英国の利益を守るため、北アイルランドプロトコル第16条を発動し、一方的にプロトコルの一部を破棄する用意がある」(2月3日付テレグラフ紙)と指摘した。これは猶予期間の延長が受け入れられない場合、EUが単一市場を守るために16条を発動し、一度は北アイルランドをワクチン輸出禁止の対象国に指定(のちに撤回された)したのと同様に、今度は英国が国内市場を守るため、16条を恣意的に発動するという意思表示だ。
プロトコルの一部を破棄するという首相答弁は、北アイルランドの民主ユニオニスト党(DUP)のイアン・プレイズリー議員が、「北アイルランドプロトコルは我々(北アイルランド)を外国人のように感じさせ、我々を裏切っている」と、首相に詰め寄って飛び出した。これはジョンソン首相の今後のEUとの通商協議に臨む覚悟でもある。
英政府は2月11日、ロンドンで、北アイルランドと英国本土の関税チェックの猶予期間延長について、EUと協議する予定だが、テレグラフ紙は2月8日付で、「EUがワクチン輸出制限をめぐり、国際的な批判を浴びている中、英国はそれを逆手にとっているとして、EUは態度を硬化させ、延長を拒否する構えだ」と報じている。ワクチン輸出をめぐる英国とEUの紛争は新たな局面を迎えた。(了)