65歳になった明石家さんまを走らせる2つの要素
2020年7月1日。明石家さんまが65歳になった。
さんまの年齢については、還暦を迎えた5年前のこの日、とりわけ大きな話題になった。
発端は、2011年に放送された関西テレビ「さんまのまんま」。ゲストの千原ジュニアから「引退を考えたりするんですか?」と尋ねられ「60歳」と具体的な数字を出したことが話題となり、あたかもそれが既成事実であるかのように独り歩きしていった。それから5年が経ったが、今もお笑い界の中心に立ち続けている。
日々、バージョンアップしていく笑い、そして、社会情勢との乖離を指摘する声もあるが、それでもトップランナーとして走り続けているのは間違いない。
仕事で使われるには、そこにはもちろん理由がある。瞬発力、ワードセンス、華…。プレイヤーとしての能力値が仕事量を左右するのは間違いないが、もう一つ、大きな要素が“周りからの愛”だ。
「この人と仕事がしたい」「この人のことが好きだ」「この人に憧れる」。これまでの取材メモを紐解いても、さんまへのあふれんばかりの思いを語る取材対象者がたくさんいた。そういった思いがうねりとなり、周りも巻き込み、さんまを仕事の渦から外に出さない。それが65歳の今も走り続けている一つ目の大きな理由だと考える。
そんな一例を挙げると、以前、拙連載インタビューで、愛弟子とも言える村上ショージから話を聞いた。ショージが結婚したのが1989年。当時は今ほどの知名度もなく、金銭的にも全く潤沢ではなかったが、ショージは華々しくハワイで挙式した。
ショージによると、結婚を考えていた頃、さんまから「オレも、よう知らんねんけど、こんな企画が来たみたいやわ。お前、ラッキーやな!タダでハワイで結婚できるがな」と雑誌を見せられたという。
「当時、僕の結婚にタイアップがつくようなことはありませんわ(苦笑)。だいぶ経って、周りからの話で知ったんですけど、雑誌社からさんまさんに話が来たんですって。『ショージさんの結婚式、特集を組んでやらせていただこうと思うんですが、つきましては、さんまさんと大竹しのぶさんに仲人として登場してもらえませんか?』と。当時、夫婦で出ることはしてらっしゃらなかったんですけど、僕のために引き受けてくださった。そして全部を決めてから、そのことは一言も言わずに『お前、ラッキーやな!』とプレゼントしてくださったんです」(ショージ)
さらに、こちらも拙連載の取材で漫才コンビ「中川家」の剛に聞いた話だが、剛は生涯忘れられない言葉をもらったという。デビューから5年ほど経ち、剛が心のバランスを崩してパニック障害になったことがあった。
とても仕事ができる状態ではなかったので弟の礼二に伝えて休みをもらい、休養を終えて、初めての東京での仕事がさんま司会の「明石家マンション物語」(フジテレビ系、1999年~2001年)だった。
スタジオに着き、不安でいっぱいの中、収録前に出演者やスタッフがみんな集まっている場に顔を出すと、剛の顔を見るなり、さんまが声をかけてきた。
「『おお、パニックマン!!』と(笑)。続けて『聞いたで、パニック障害らしいな。でも、ま、しゃあないやろ。なってしもたんやから。そうや、お前“パニックマン”というコントしたらエエねん!!困ってる人を助けに行ったけど、手が震えてパニックになるという設定で』と。『なんちゅうことを言うんや…』という思いもありましたけど、周りとしたら、僕の病気は知ってるものの、どう接したらいいのか迷ってた部分もあった。その空気を察して、全員がいる前で、さんまさんが“ガス抜き”をしてくれたんです。そして、本番前、僕にコソッとおっしゃいました。『緊張しててもいい。手が震えててもいい。どんな状況でも、オレが必ず責任を持つ。だから、何でもエエから出て来い』と」。(剛)
圧倒的なまでの愛。そして、もう一つ、周囲がひきつけられ、さんまを離さない要素が「絶対に面白いことしか発信しない」という強い意志だ。
昨年2月、新劇場「COOL JAPAN PARK OSAKA」のこけら落とし公演として上演された「さんま・岡村の花の駐在さん」の際にも、その思いが表れていた。
公演前日にさんまの師匠である笑福亭松之助さんが老衰で逝去。大きな存在を失った翌日の舞台だったが、この日のさんまはいつにもまして、爆発的に面白かった。
「師匠との別れに心を傷めているのでは…」とさんまを気遣う場内の空気を敏感に察知し、それを払しょくするように、あえて松之助さんの話題に触れて笑いに変える場面もいくつかあった。
師匠の件だけでなく、さんまの哲学をこれでもかと体感したことがあった。それは2006年2月7日のことだった。
同月4日にさんまの実父が亡くなり、実家のある奈良市内で葬儀が営まれた。通常、タレントの身内に不幸があった場合、所属事務所から概要がマスコミに届き、それとともに取材の段取りなども通知されることが多い。
ただ、この時は所属の吉本興業からのアナウンスは一切なし。それどころか、現地には取材に来ないでほしいという異例のお達しまで出された。
ただ、スターであるさんまの実父の葬儀だけに、在阪のメディアはこぞって駆け付けた。当時、デイリースポーツの芸能担当記者だった僕も電車を乗り継いで現場に向かった。
現地に着いて驚いたのは、葬儀場に入ることはおろか、その近辺にも近づくことができないほど徹底したガードを吉本の担当者やマネージャーがとっていたこと。
さんまに話を聞くことも、写真を取ることもできない。現場から少し離れた土手から様子をうかがおうとするも、それも難しく、結局、取材としてはほぼ収穫なしで帰路についたことを明確に覚えている。
普段は担当記者と友好的な関係を保っていることが多い吉本だが、あの時は記者と担当者がバチバチにやりあった。それくらいの厳戒態勢だったし、逆にいうと、親の死という、笑いと一番遠いところにいる自分の姿を世の中に発信したくない。そんなさんまの思いがそれだけ強いということを身をもって感じた場でもあった。
愛。そして、ストイックなまでのこだわり。この二つに周囲はひきつけられ、今も“お笑い怪獣”は日々咆哮を続ける。