【戦国こぼれ話】徳川家康と石田三成は、互いに心の底から憎みあっていたのか?その話は真っ赤な嘘
徳川美術館(名古屋市東区)がコロナ禍で入場者が激減したため、クラウドファンディングを開始した。これを応援したのが、ツイッターの「石田三成」アカウント。実際に家康と三成は憎みあっていたのか。
■ドラマや小説の徳川家康と石田三成
慶長5年(1600)9月15日、東軍の徳川家康は西軍の石田三成を討った。2人が対立した背景には、豊臣秀吉の没後に家康は天下を狙い、三成はそれを阻止しようとしたという話があった。こうした構図は、テレビドラマや小説などでよく描かれている。
もともと両者は、本当に互いに激しく憎みあっていたのか。その発端となったのが、慶長4年(1599)閏3月に勃発した石田三成訴訟事件である。
従来説によると、三成を憎む七将が襲撃したといわれていたが、それは誤りであり、実際は七将が三成の非道を訴え、処分を求めたのが正しいと指摘されている。
同時に、七将に襲撃された三成は、家康の伏見邸(京都市伏見区)に逃げ込んだといわれているが、こちらも間違いである。実際に三成が逃げ込んだのは、自身の伏見邸だったと指摘されている。
いずれにしても、このとき家康が仲裁を行い、三成は佐和山(滋賀県彦根市)に逼塞を余儀なくされた。
一連の事件の結果、家康は豊臣政権内に大きな発言権を持ち、与党を形成した。これにより三成は、家康に対する憎悪がさらに募ったといわれているが、それは事実なのか?もう少し考えてみよう。
■訴訟事件後の家康と三成
同年閏3月、家康は三成の嫡男・重家を大坂城に迎え入れ、三成の代わりに出仕を認めた。
つまり、三成は隠退したとはいえ、重家を豊臣家に出仕させたのだから、石田家が存続したのは間違いない。むろん、重家が出仕したのには、いくつかの理由が考えられるだろう。
家康が三成を厳しく処罰すると、諸大名への悪影響が懸念された。逆に、三成と七将との仲裁に入り、重家の仕官を認めることは、三成に貸しを作ることになったので得策だった。家康の老獪な考えである。
慶長4年(1599)9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の祝詞を述べるため、宿所の伏見から大坂へ向った。
家康が大坂に到着すると、驚くべきことに、大坂城のすぐそばにある三成の邸宅を宿所に定めた。家康が大坂を訪れた際、三成の邸宅を宿所にしたのだから、2人の関係が悪いとは考えにくい。
その直後、前田利長らによる家康暗殺計画が発覚すると、家康は利長を討伐すべく、加賀に軍勢を送り込もうとした。
その際、大谷吉継の子・吉治と石田三成の内衆1千騎が越前方面に向かったという。家康が三成に対して一定の信頼がなければ、内衆を送り込むはずがないと指摘されている。
■まとめ
最近の研究によると、家康と三成の関係が悪かったことを示す一次史料はないと指摘されている。表面的かもしれないが、2人の関係は悪くはなかったのである。
テレビドラマや小説などにおける家康と三成の敵対関係は、秀吉亡き後に天下を我が物にしようとした家康、それを阻止しようと奮闘する三成という形で描かれた。
そう描かれたのは、両者の対立構図がわかりやすかったからだ。しかし、それはここまで述べたとおり、何の根拠もなく正しいとは言えない。
話を元に戻すと、コロナ禍で博物館、美術館などは経営が苦しくなったところが多い。ときはまさに「芸術の秋」。みなさんが博物館、美術館などに足を運ぶことが応援になる。