【光る君へ】紫式部も激怒した!? 夫藤原宣孝のあやしい女性関係とは
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原宣孝の女性関係が紫式部にバレてしまったようである。宣孝には側室がいたものの、ほかにも女性との関係があったようなので、確認することにしよう。
藤原宣孝が紫式部と結婚したのは、長徳4年(998)頃といわれており、正確な年月日は不明である。宣孝も式部も生年不詳であり、2人の正確な年齢はわからないが、おおむね20歳以上も宣孝が年上だったといわれている。
しかも、宣孝には藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘という、3人の妻がいた。宣孝は顕猷の娘との間には隆光、季明の娘との間には頼宣、朝成の娘との間には隆佐、明懐、儀明と、それぞれ子をもうけていた。そのうえで、式部は妻に迎えられたのである。
宣孝は備後、周防、山城、筑前などの受領を歴任するなど、職には恵まれていた。その点については、有名なエピソードが伝わっているので、紹介することにしよう。
当時、御嶽詣(吉野金峯山)に際しては、質素な服装で参詣するのが通例となっていた。しかし、宣孝は「御嶽の神様がおっしゃったことではないだろう」と述べ、あえて派手な服装で詣でたのである。
その結果、宣孝は念願がかない、筑前守に栄転したというのである。宣孝は非常に豪放磊落な性格の持ち主で、しかも経済的にも豊かだったと推測されるので、女性からもてたのかもしれない。
長徳3年(997)、宣孝は当時越前で父の為時と滞在中だった式部に求婚していた。おそらく、その前年頃から、宣孝は式部に積極的にアプローチしていたといわれている。
その一方で、宣孝は近江介の源則忠の娘のもとに通っていたという。つまり、宣孝は式部と則忠の娘との二股を掛けていたことになる。その事実は、すでに式部もつかんでいたのである。
実は、それだけではなかった。宣孝の和歌には「いどみける女の甲斐にあひぬときゝて」という詞書が添えられているものもあり(『玄々集』)、こちらも女性関係をうかがわせる内容だ。式部も、さぞかし頭を悩ませたことであろう。