朝ドラ俳優が挑む、カンヌ映画祭でも高い評価を受けた「デカローグ」 団地の住人の誰もが秘密をもっている
亀田佳明さんインタビュー
善悪などの価値基準をできるだけ排除して、フラットに見る存在を
巨大団地に住む人達の物語「デカローグ」は、「トリコロール」3部作、「ふたりのベロニカ」で知られる世界的映画監督クシシュトフ・キェシロフスキが撮った連ドラである。
1話1時間ほどで全10話。これは日本の連ドラのフォーマットに近い。旧約聖書の十戒をモチーフにした各話は濃密で、それぞれに巧みに組み込まれた仕掛けや、各話の登場人物がときおりリンクしていくグランドホテル形式的な部分なども楽しめる。
1989年から90年にかけてテレビ放送される前の88年、このうちの一作が「殺人に関する短いフィルム」として劇場版化され、カンヌ映画祭で審査員賞、国際批評家連盟賞を受賞、スタンリー・キューブリック、エドワード・ヤン、侯孝賢などから賞賛を受けた。
密かにタブーを破っている団地の住人たち
舞台は80年代のポーランドの団地。そこで暮らす人々の生活は現代日本の我々となんら変わらない。マンモス団地のなかでは、様々な家庭と様々な生活が進行している。父子家庭だったり、父母と娘だったり、血のつながらない関係だったり、ひとり暮らしだったり、家族の形はいろいろで、不倫をしている者もいれば、向かいの部屋の女性を覗き見している者もいる。誰もがなにかしら問題を抱えている。なぜ人は、愛や欲望のためにタブーを破ってしまうのだろうか。そもそもタブーとは何なのかーー。
心ざわつき、あとを引く10篇の物語を新国立劇場で完全舞台化、4ヶ月間にわたって上演されている。いよいよ、クライマックス「デカローグ7〜10」の上演にあたり、全10作に出演している亀田佳明さんに話を聞いた。
亀田さんは、朝ドラこと連続テレビ小説「らんまん」で画工・野宮朔太郎を演じて注目された。もともと文学座に所属して舞台を中心に活躍している。
「デカローグ」の10作すべてに出ているのは亀田さんのみ。ドラマ版では“男”は何話か出ていない回もあるが、舞台版では演出の小川絵梨子さんと上村聡史さんのアイデアで、全話出ることになった。そのため、本番と稽古が同時進行していて大変なのだとか。
この役、台本には“天使”と書いてあるがーー。
亀田「原作のテレビドラマ『デカローグ』の監督・クシシュトフ・キェシロフスキさんは“天使”と明言はしていないんです。各話に共通して出てくる“男”という役割だったのが、批評家や評論家の解釈として“天使”という言葉が使われるようになったようです。今回の台本も『そういう存在だよ』とカンパニーに伝えるために“天使”と書いてあるんですが、役名はあくまでも“男”です。だから僕も演じる上で天使を意識しているわけではないんです。お客様の中で様々な捉え方が生まれて良いのではないかなと思っています。ここまでちょっとずつ演じてきて感じているのは、物事に対して、善悪などの価値基準をできるだけ排除して、フラットに見ている存在かなと思っています」
天使? 街に佇む男は何者なのか。
“男”は団地の住人の生活の一部――団地界隈に存在する通行人のような雰囲気で、各話、違う職業や役割で現れる。湖に佇んでいたり、建設作業員ふうだったり、凧をあげている人だったり。
ドラマ版の解説書を読むと、“男”は出来事を見つめるだけ。「何も言わない、あの男のような人間は現に存在する」と監督が語っている。もしかしてそれは様々な問題に無関心になってしまいがちな私たちへの批評なのかとぎくりとなるが。
亀田「僕もドラマ版を見る前に、書籍を読みました。解説にも“この男を登場させることで、(観客が)自分は今彼と同じ出来事を目撃しているのだと観客に気づかせる”とあり、そこで感じた印象は、“男”は、何か事象が起きたとき、心が動いてないわけではないと僕は思います。何もしない、あるいはできない.....ただ見ている、その男に現実味を感じました。眼の前で起こっていることに、僕自身がコミットしたり、判断したりしないことで、観客の思考がたえず働く存在になっていくのかなとも思っています」
やりがいのありそうな重要な役だが、セリフはひと言もない。台本をもらうと、自分のセリフを数える俳優もいると聞いたことがあるが。
亀田「僕は数えたことはないです(笑)。今回、この役をやってみて、セリフがあろうとなかろうと、使うエネルギーは変わらないことがよくわかってきました。去年、同じく新国立劇場でやったシェイクスピアの『終わりよければすべてよし』では、ペラペラとよくしゃべるペーローレスという役をやらせていただいて、それによって得られる経験値もたくさんありました。今回はセリフを発せず、ただ物事を俯瞰するポジションになったことで、俳優の仕事も、それぞれのスタッフの仕事も客観的に見ることができて、今更ながらなのですが、それが自分にとっては新鮮でよかったと思っています」
プログラムD、Eでは“男”はどんな役割なのだろうか。
亀田「大学生の仲間のひとりや郵便局員、松葉杖をついて出てくる男や自転車こいで通過する男だったりします。『デカローグ』の面白さは、時々、各話のリンクがあることで、エピソード10『ある希望に関する物語』の郵便局員は、プログラムCのエピソード6『ある愛に関する物語』にも出ているんですよ。ゆるやかにではありますが、6と10はつながっているんです。ほかにも、各話でつながりがあって、あの回に出てきた人がこの回にも出ているとか、あの回の話がこの回で語られるというような仕掛けがあります。同じ団地が舞台だからこその醍醐味です」
各話のリンクの楽しみや、デカローグ──戒律というモチーフの使い方の面白さなど、テレビドラマの考察を楽しむように演劇を見ることができる。もともとこれが全10回の連続テレビドラマだったからだろう。
亀田「舞台出演のお話を聞いてからドラマ版を見ました。舞台もそうなのですが、余白の部分がずいぶん多いなあという印象で。物語がはっきり完結しないまま終わっていくので、余韻がずっと残ります」
団地とその周辺の街では悲劇も喜劇も起こる。それを男が関与せずただ見つめることで、観客が、いま起こっていることに脳みそを活発に動かして注視する助けになる。
亀田「稽古や本番を通して、男と物事や人々との距離によって、男の心の動き方も違ってくるので、その距離の取り方も試行錯誤しています。目線も、ドラマ版でもカメラ目線になる場面があるので、舞台でもたまに観客に向けようかと思って、湖や木を見ている流れで客席に目をやるようにしてみることもあります」
劇団は好きなことをやらせてもらえる場だった
演技とはなんと奥深いものなのか。亀田さんがこの深淵な世界に足を踏み入れたわけは?
亀田「学校の先生になろうと思って大学に行って。それが3年の手前ぐらい、教育実習を受ける段になって迷いはじめ、いきなり辞めちゃったんですよ。このまま学校の先生になったら人生が決まってしまうことに対して急に不安を感じてしまったんです。学費を出してくれた親には申し訳なかったなと思いますが……。そこから何をしようかと考えて、翌年文学座を受けました。なぜ演劇だったかというと、姉が演劇をやっていたので身近だったんです。僕自身は人前に出てしゃべることが得意なわけでもないし、学校で人気者というわけでもなく、学芸会で演劇をやらされることも好きではなくて。演劇は現状からの逃げ道でしかありませんでした」
多くの劇団のなかから老舗の文学座を選んだわけは、名前を知っていたから。
亀田「演劇に詳しくなくて、ただ名前を知っていたからというくらいで(笑)。もうひとつは、受けるにあたって調べると、どうやら自由らしいぞと感じたんです。ほかの劇団のことを知らないのですが、実際に入ってみたら、劇団公演に出たときはもちろん厳しい目線や言葉をいただきますけれど、基本的には好きなことをやらせてもらえました。杉村春子さんの時代からそうだったみたいで、劇団のアトリエ公演で別役実さんや、劇団の本公演では選ばないような翻訳劇などをやっても、杉村先生は見にいらっしゃるたびに『私にはよくわからないけど、やればいいんじゃない?』というようなスタンスで許容してくださったと聞いたことがあります 」
こうして演劇の道を歩んで20年以上。意外と長続きしている。
「らんまん」の画工の、独特の佇まいを表現できたわけ
亀田「入団1年目は、かなり授業をサボったりしていて、授業に出ないと発表会でもいい役はもらえないですし……。そんな僕が演劇を続けてこられたのは、出会いに恵まれていたんだと思います。縁が繋がっていまがあるというのは本当に実感しますし、それのみという感じもします」
朝ドラ「らんまん」に画工・野宮朔太郎役で出演し、あの俳優は何者だ?と注目された。主人公とライバルになりそうな状況でも、主人公の実力を素直に認める気持ちのいい役で人気を得た。それも縁だった。
亀田「脚本の長田育恵さんの劇団に僕が客演した(「対岸の永遠」16年)、そのご縁でした。僕はあまり映像をやっていなくて、連続ドラマにレギュラー出演するのは珍しいことでした。そこから知名度が上がったという実感はないですが、朝ドラを見たというお言葉を頂けるようにはなりました」
とりたてて熱心ではないようなことを言い、「呑気なんですよ」と笑う亀田さんだが、例えば「らんまん」の野宮は昭和の戦中戦後の勤勉な人物らしさが漂った。その時代の人をよく知っているわけではないが、平成や令和の現代的な人物の仕草とは違って見えた。どうやったらそういうふうな演技ができるのだろうか。
亀田「昭和初期の人物を演じる方法をことさら教わったことはないですが、文学座の本公演や発表会でやる演目のなかに、久保田万太郎さんや岸田國士さんの書いた近代演劇がありまして。それを演じる先輩たちの衣装の着こなしや所作、何かの物事に対する向き合い方を自ずと見てきているので、どこか染み付いているのかもしれないです」
「デカローグ」は、80年代のポーランドが舞台だが、どこにでもいる生活者のような、浮遊感のある天使のような、答えのない存在を軽やかに演じている。ポーランド人を意識はしていないそうだ。
さて、最も重要な質問。プログラムA〜Cを見ていなくても、プログラムD、Eを楽しめますか。
亀田「各話、独立した作品として見られるので、全く問題ないです。残り、4話のなかで、“男”の存在もこれまで以上に明確に見えてくるところもあると思います。プログラムの前半で描かれた人間の葛藤や苦悩への向き合い方には、絶望感が強いところもありましたが、残り4話は、ユーモアを含んだ深い愛情も見えてくると思います。1〜10まで同じ団地を舞台にした作品ながら、どれもまるで違う、とても豊かなプログラムになっているんです。各話1時間で見やすいのですが、濃度は3時間分くらいある贅沢な作品です。演じているほうも各回、ひとりの人間の人生を生ききったように、終演後はヘトヘトになっています」
profile
かめだ・よしあき
1978年10月31日、東京都生まれ。2001年、文学座附属演劇研究所入所、2006年 座員となり、現在に至る。受賞歴:2019年度 第54回紀伊國屋演劇賞・個人賞(「ガラスの動物園」「タージマハルの衛兵」)。近年の主な出演作に「ライカムで待っとく」「ブレイキング・ザ・コード」「尺には尺を/終わりよければすべてよし」「パートタイマー・秋子」など。連続テレビ小説「らんまん」、「やさしい猫」、映画「検察側の罪人」などがある。
デカローグ
演出:小川絵梨子、上村聡史
7-10[プログラムD・E] 6/22(土)~7/15(月・祝) 新国立劇場 小劇場
4~5月は「デカローグ1~4」、5~6月は「デカローグ5・6」が上演された。
上演台本は、ロイヤルコート劇場との共同プロジェクト、劇作家ワークショップ発の作品「私の一ケ月」(22年)の作家、須貝英。演出は、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子と上演時間計7時間半の「エンジェルス・イン・アメリカ」2部作(23年)の演出を手掛けた上村聡史。
「デカローグ1~4」 第1話「ある運命に関する物語」
第2話「ある選択に関する物語」
第3話「あるクリスマス・イヴに関する物語」
第4話「ある父と娘に関する物語」
「デカローグ5・6」
第5話「ある殺人に関する物語」
第6話「ある愛に関する物語」
「デカローグ7〜10」
第7話「ある告白に関する物語」
第8話「ある過去に関する物語」
第9話「ある孤独に関する物語」
第10話「ある希望に関する物語」