大河ドラマ「光る君へ」の主人公の紫式部は、その生涯に謎の多い女性だった
あけましておめでとうございます。
今年の大河ドラマは、紫式部が主人公の「光る君へ」である。紫式部を演じるのは、吉高由里子さんだ(1月7日放映)。
紫式部は国語や歴史の教科書で、『源氏物語』の作者として紹介されているが、その生涯には実に謎が多い。いったい、どんな女性だったのか考えてみよう。
紫式部は、藤原為時と藤原為信の娘の子として誕生した。生年は天延元年(973)が有力視されているが、諸説あって定まっていない。ちなみに没年も不詳である。豊富に史料があるわけでなく、謎多き女性だ。
父の為時は、播磨権少掾、式部丞などを務め、のちに受領として越前守、越後守を歴任した。最高位は、正五位下である。為時は長和5年(1016)に出家したが、生没年は不明である。
為時は当時の嗜みとして和歌に親しんだが、現存する作品は『後拾遺和歌集』などに収録された4首しか伝わっていない。むしろ、為時が得意としたのは漢詩文で、『本朝麗藻』に13首、『類聚句題抄』に5首が収録されている。
紫式部は和歌や漢詩文などの高い文才を誇っていたが、父の影響があったと考えられる。しかし、為時は人づきあいが苦手だったのか、非社交的だったといわれている。
紫式部は幼くして母を亡くす不幸に見舞われたが、漢籍の覚えは兄弟の惟親よりも早く、父をして「この子が男子だったらよかったのに」と言わしめたほどだ。
長徳2年(996)、紫式部は父が越前守になったので、赴任先に同行したが、2年後に京都に戻った。理由は、藤原宣孝と結婚するためである。2人は娘(大弐三位)に恵まれたが、宣孝は長保3年(1001)に病没した。
紫式部が彰子に女房として仕えたのは、寛弘2年(1005)頃のことである。彰子は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮だった。その間、紫式部は彰子に『白氏文集』の進講を行った。
『白氏文集』は、唐の白居易による詩文集である。紫式部は幼い頃から漢詩文の素養があったが、その才能が生かされたということになろう。
紫式部が彰子に仕えたことは、その後の大きな転機となった。寛弘5~7年(1008~1010)にかけて、紫式部は『紫式部日記』を執筆していた。
それは彰子の後宮の模様のほか、同僚の女房に対する評価など多岐にわたっており、当時の貴重な史料として今も活用されている。このほか、家集の『紫式部集』をまとめ、紫式部の和歌は勅撰集に51首も採られた。
そして、特筆すべきは『源氏物語』である。『源氏物語』は我が国有数の古典の一つとしてだけではなく、英訳されるなどして、世界的にも知られるようになった。なお、『源氏物語』については、改めて取り上げることにしよう。
主要参考文献
角田文衛『紫式部とその時代』(角川書店、1966年)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)
沢田正子『紫式部』(清水書院、2002年)
山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)