「ネットデマは無くならない」世界の知性が口をそろえるこれだけの理由
「ネットデマは決して無くならない」――世界の有識者が、口をそろえてそう指摘している。
新型コロナ禍での誤情報・偽情報の現状その対策をめぐる国内外の提言をまとめた報告書「デジタル空間における信頼創出に向けて~市場によるアプローチの検討」を、経済産業省が公開した。
その中で、ベストセラーSF小説『三体』で知られる中国のSF作家の劉慈欣氏、米テクノロジーカルチャー雑誌「ワイアード」創刊編集長のケヴィン・ケリー氏、「エコーチェンバー現象」「ナッジ理論」で知られるハーバード大学ロースクール教授のキャス・サンスティーン氏ら、多彩な論客がそろって指摘するのが、ネットデマは無くならない、という点だ。
取り組むべき問題の急所はそこではない、と識者たちは述べる。
新型コロナ禍の現状では、ワクチン接種をめぐるデマの拡散も続く。そのような目の前の危機の中で、情報の信頼のために何ができるのか――。
筆者も参加したこの報告書では、幅広い議論の先に、そんな処方箋を考えるための手がかりがまとめられている。
●適応していくしかない
中国のSF作家の劉慈欣氏は、報告書の中でそう述べている。
劉氏は、世界での発行部数2,900万部というベストセラーSF小説『三体』で知られ、アジアの作家として初めて米国のSF賞、ヒューゴー賞も受賞している。
報告書「デジタル空間における信頼創出に向けて」は、現時点(8/10)で広報レポート(全211ページ)が経済産業省のサイトで公開されている。
報告書では、劉氏ら世界的に知られる有識者へのインタビューで、新型コロナ禍における誤情報・偽情報の氾濫「インフォデミック」について、その問題点と対策の提言について尋ねている。
劉氏はインタビューで、誤情報・偽情報の氾濫の背景と指摘される社会の分断についても、こう言い切っている。
劉氏は、「危険な影響をもつデマとフェイクニュース」については、法律と政府による抑止が必要、との立場だ。さらに教育の取り組み、そして「大衆の識別能力の高まり」に期待を寄せ、こう述べる。
プラットフォームのアルゴリズムにより、人々の興味関心に沿った情報配信が行われ、それらは社会グループの分断と細分化につながる。このような「フィルターバブル現象」は、「インフォデミック」を広げる背景といわれる。
だが劉氏は、それが文化の多様性にもつながるといい、「情報ネットワークは人類の分化を促進すると同時に、人類の一体化をも促進するという側面があることにも注意すべきです」と述べる。
●「ミラーワールド」の未来
米テクノロジーカルチャー雑誌「ワイアード」創刊編集長で、『〈インターネット〉の次に来るもの』などの著書で知られるビジョナリー、ケヴィン・ケリー氏も、「(インターネットにおいて)策略や陰謀をなくすことはできない、せいぜいなんとか対処することしかできない」と述べる。「それが、ネットワーク・コミュニケーションの本質なのです」と。
ソーシャルメディアの源流であるブログが登場したのが1990年代末。フェイスブックなどの代表的なサービスが登場するのは2000年代半ば以降だ。ケリー氏がいう「7000~8000日」とは、それからまだ20年ほどしかたっておらず、誰もが不慣れな初心者である、といった意味だ。
インフォデミック対策について、対処法の第一としてあげるのは「実名制」の要求だ。政府の介入には否定的で、「テクノリテラシー」と呼ぶ教育の強化についても訴える。
さらに、ケリー氏が強調するのはプラットフォームによるインフォデミック対策の「試行錯誤」の必要性だ。
その上で、インターネットの先の世界、現実世界が忠実に写し取られた仮想世界「ミラーワールド」が到来する未来についても見通す。ケリー氏のいう「ミラーワールド」は、「デジタルツイン」などと呼ばれる現実とリンクした仮想空間のイメージにも近い。
そこでは、情報の信頼はより大きな問題になるという。
その対処の基本となるのは、やはり「試行錯誤」だとケリー氏は述べている。
●「エコーチェンバー現象」と「ナッジ理論」
ハーバード大学ロースクール教授のキャス・サンスティーン氏は、著書『インターネットは民主主義の敵か』で「エコーチェンバー現象」、ノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授、リチャード・セイラー氏との共著『実践 行動経済学』で「ナッジ理論」を提唱したことで知られる。
そしてサンスティーン氏はこう続ける。「ただし、それがもたらす害を軽減することは可能です」
同じような価値観を持つ人々による閉じたグループでは、意見がより増幅、先鋭化される。この現象を、「反響室(エコーチェンバー)」に例えたのが「エコーチェンバー現象」だ。
サンスティーン氏がこの問題を指摘したのは2001年だが、2010年代のソーシャルメディアの普及とともにそれが表面化し、誤情報・偽情報とともに一気に社会問題化したのが、トランプ前米大統領が誕生した大統領選の年、2016年だったという。
誤情報・偽情報対策として、サンスティーン氏が行動科学の知見から有効だとするのが、「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する」という「ナッジ(軽いうながし)」だ。
サンスティーン氏は、市民ひとりひとりの役割の重要性についても指摘している。特に、政府が偽情報を流すようなケースだ。
●メディアを強化する
欧州復興開発銀行初代総裁でフランスの経済学者のジャック・アタリ氏は、新型コロナ禍による社会の変化について、近著のタイトルでもある『命の経済』などのキーワードで積極的に発信を続けている。
アタリ氏は、パンデミック、風説の流布、世論操作、陰謀論はこの2000年の間にたびたび起きてきたことだ、と述べる。
現在との違いは、ソーシャルメディアによる拡散の加速とその規模だ、とアタリ氏。ただし、それらを放置すべきでもない、という。
リテラシー教育の重要性と合わせて、アタリ氏が指摘するのが、メディアに焦点を当てた対策だ。
ただし、アタリ氏が訴えるのは、単なるメディアの救済策にはとどまらない。
●プラットフォームのガバナンス
ベストセラー『シェアリングエコノミー』で知られ、エアビーアンドビーやウーバーなどに代表されるシェアリングエコノミー(共有経済)研究の第一人者である、ニューヨーク大学経営大学院教授のアルン・スンドララジャン氏のインタビューは、筆者が担当した。
すなわち、人間の処理能力を超えた膨大すぎる情報量、そして人々の感情をことさら刺激するように作り込まれた偽情報が、インフォデミックの問題の核心だという。
「インフォデミック抑制に中心的な役割を果たせるのは、プラットフォームだ」とスンドララジャン氏。だが現状について、プラットフォームと政府の力学や責任の境界が曖昧だという問題を指摘する。
その曖昧なグレーゾーンにプラットフォームが踏み込むたびに、論争や不安の声が沸き起こる。
この問題に対処するため、スンドララジャン氏は「デジタル権利章典」と呼ぶ5つのルール(透明性、アルゴリズムの公正性、ユーザーのデータ所有権、意思決定へのユーザー参加、異議申し立てのための適正手続き)を提唱している。
プラットフォームがこのルールを遵守し、ガバナンスを担保することが必要だ、とスンドララジャン氏。
そのためにも欠かせないのが、各国がプラットフォームに対して足並みをそろえた国際協調だという。
●「幻想化する社会」と事実
報告書には筆者自身の論考も収録されている。取り上げたのは、「幻想化」というキーワードだ。
サンスティーン氏が「ナッジ」の例として紹介した、ツイッターなどによる取り組みは、米アリゾナ州立大学ジャーナリズム大学院教授、ダン・ギルモア氏が提唱してきた「スローニュース」の考え方とも重なる。
「まず深呼吸して、スピードを落とし、深く掘り下げる」。つまり、インターネットの登場、ソーシャルメディアの普及を通じて加速し続ける情報を、いったん減速させ、その真偽や価値をしっかり見極める、ということだ。
そこで現実感とのフックになるのが、客観的な事実だ。
●5つの提言
報告書ではこのほか、東京大学准教授、関谷直也氏、京都大学教授、稲谷龍彦氏、香港大学准教授、鍛治本正人氏、慶應義塾大学教授、大林厚臣氏、さらにNPO「ファクトチェック・イニシアティブ」などによる調査や論考、構想も収録されている。
そして報告書は、「デジタル空間における 『信頼』創出に向けた提言」として、「デジタル・ナッジ」「信頼の見える化」「情報防災(リスク管理)」「情報ワクチン(リテラシー教育)」「ファクトチェック」の5つのポイントを示す。
新型コロナ禍がなお急速に拡大を続ける中、情報の信頼性をめぐって、差し迫った問題が目の前にあることは間違いない。
問題の急所は「ネットデマを無くす」ではない。重層的できめの細かい取り組みが求められている。
(※2021年8月9日付「新聞紙学的」より加筆・修正のうえ転載)