BOφWY『LAST GIGS』東京ドームから25周年 ~解散宣言から4ヶ月後に行われた再結成公演~
〜伝説の解散宣言から4ヶ月後に行われた早すぎた再結成公演〜
BOφWYのバンド名にある記号“φ(空集合)”には、“何処にも属さない、誰にも似たくない”という意味がある。さらに、バンド名は頭文字“B”から“Y”で終わっている。そこにはアルファベットの始まりである“A”、終わりである“Z”が無いのだ。そんなことから“BOφWYには始まりも終わりも無い”という名キャッチコピーが存在する。バンドのアイデンティティを伝えるのに、とてもわかりやすいエピソードだと思う。
今から25年前の1988年4月4日と5日、BOφWYは完成したばかりの東京ドームで最後のライヴ『LAST GIGS』を行った。この公演は、正確には解散ライブではなく、あまりにも早い“再結成”公演だったと語り継がれている。なぜならBOφWYは1987年12月24日に全国33都市全36公演ツアー『ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR』公演最終日の渋谷公会堂にて、完璧な形で終わりを迎えていたからだ。なお、この衝撃の解散宣言の模様は、禁断の楽屋シーンを含め全曲ノーカットで、現在ライブシネマ『BOφWY 1224 FILM THE MOVIE 2013』として、全国の映画館で好評につき延長ロードショーをされている。
2度歌われた代表曲「NO.NEW YORK」
東京ドームの巨大な空間に印象的なイントロダクション「B・BLUE」が鳴り響くことから始まった、BEST選曲によるBOφWY最強のレパートリーが披露された『LAST GIGS』公演は、代表曲である「MARIONETTE」、「CLOUDY HEART」、「IMAGE DOWN」、「ONLY YOU」など全24曲がプレイされた。鳴り止まないアンコールに応える形で、ライヴハウス新宿ロフト時代から歌い継がれている代表曲「NO.NEW YORK」が、当初セットリストには載っていなかったがファンへの感謝の気持ちをこめて2度演奏されたことは印象深い。そう、『LAST GIGS』とは、ファンに向けた感謝の宴だったのだ。ゆえに、当時日本で一番のキャパシティを誇った会場、東京ドームで2DAYS行われた。自分たちを支えてくれたファンへ向けての感謝が『LAST GIGS』には込められていたのだ。そして、BOφWY解散後、日本のロックシーンは市民権を経て、バンドブームが勃発するのだった。その後、東京ドーム公演が、ロックバンドの目標であり、定番となったことは言うまでもないだろう。
通信インフラの進化や、音楽の聴き方、出会い方の変化など、21世紀の音楽シーンは様々な変動を迎えているが、生身のロックンロールが解き放つ一夜の感動はすべてを乗り越え、時代を超えて語り継がれる伝説となったのが『LAST GIGS』公演だった。しかし、氷室京介は『LAST GIGS』でのMCで「俺たちは、まだまだ伝説になんかなんね~ぞっ!!」と叫んでいる。そのパンクなアイデンティティこそが、今もなお、BOφWYのメンバー4人がそれぞれの形で音楽活動を第一線で継続している理由なのだろう。
文京区の電話回線をパンクさせた
そんなこともあり最後のライヴ『LAST GIGS』は、通常のいわゆる御涙頂戴の解散公演とは一線を画している。メンバーには笑顔も見え、氷室京介(ヴォーカル)、布袋寅泰(ギター)、松井恒松(ベース)、高橋まこと(ドラム)での4人でBOφWY楽曲をプレイすることを楽しんでいるようにも思えた。とはいえ、マスメディアからも注目された伝説の解散宣言から4ヶ月。加熱するファンの増殖スピードは止まらず、2日分のプレミアチケット10万枚はたった10分でソールドアウト。文京区の電話回線をパンクさせたことは後にバンド伝説として語り継がれている。
メンバーの黒を基調としたJean-Paul GAULTIERによるファッションは、その後のロックシーンに多大なる影響を与えた。そして、最後のライヴを観れなかったファンの為に公演後一ヶ月という猛スピードでリリースされたライヴアルバム『LAST GIGS』はバンド初のミリオンセールスを記録した。それほどに、BOφWYというバンドの消滅は当時の音楽シーンに置いて鮮烈だったのだ。そして、如何にBOφWYがライヴというリスナーとダイレクトに繋がれる“場”を大事に考えていたかが伝わるエピソードだ。
〜1988年から2013年、25年が経過〜
そして最後のライヴとなった『LAST GIGS』から25周が経過した2013年3月21日、1stアルバム『MORAL』が発売された1982年3月21日から、30周年を迎えたアニバーサリー・プロジェクトとして、ビクター〜徳間〜EMIというレーベルを超えて、オールキャリアの楽曲をファンからのリクエストを反映させ、ひとつのアイテムにまとめた2枚組ベストアルバム『BOφWY THE BEST “STORY”』がリリースされ、週間アルバムランキング首位に初登場した。
解散から25年以上経過したグループによる首位獲得は、ザ・ビートルズ以来史上2組目だという。邦楽グループでは初の快挙を成し遂げ、まさに、渋谷公会堂で「誰が何と言おうと日本で一番カッコいいバンド」という、氷室京介のMCは、いまだ衰えぬ人気を証明し続けている。
先陣を切ってロックの一般化を押し進める加速器のような役割
BOφWYのBESTアルバムは、過去3アイテム『SINGLES』(1989年/シングル集)、『THIS BOφWY』(1998年/EMI作品のみのBEST)、『BOφWY DRASTIC/DRAMATIC(レーベルを超えた2枚組のBEST盤2タイトル)』(2007年)がリリースされているが、すべて大ヒットを記録している。さらにいえば、音楽シーンにおける地殻変動と言えるバンドブーム(1989年)〜音楽バブル(1998年)〜音楽×ITの転換期(2007年)において、時を動かすスイッチのような役割をBOφWYは担ってきたようにも思える。ビートルズが世界の音楽史を変えたように、日本ではBOφWYが先陣を切ってロックの一般化を押し進める加速器のような役割を担っていたのだ。
本BESTアルバムのシンプルなタイトル『BOφWY THE BEST “STORY”』は、ミリオンセラーを記録した彼らの伝記本『BOφWY STORY 大きなビートの木の下で』〈CBSソニー出版・1986年刊〉を彷彿させるのが興味深い。本著は、マネージャー土屋浩氏がペンネームである紺待人名義で書いた、メンバー4人の幼少期から、如何にしてBOφWYが結成されたかまでが綴られた作品だ。故に、その続編としてのバンド・サクセスストーリーの結果である、代表曲が時系列に並んでいる様子が、アルバム『BOφWY THE BEST “STORY”』では表現されているように思える。
そもそもBOφWYのデビューアルバム『MORAL』は、権威であった音楽雑誌『ミュージック・マガジン』では当時全く評価されなかったという。しかし、30年を経て、表紙特集が成されたことはBOφWYが如何に時代を乗り越えてきたかを物語っている。日本のロック史を語る上でBOφWYは、大規模会場でのロックコンサート〜ロックバンドによるミリオンセラー〜バンドブームなど、大きな変化を残してきた。日本のロックシーンを語るとき、BOφWY前/BOφWY後と語られるのは偶然ではない。様々な場面で、BOφWYがターニングポイントとなっていたのだ。
ファン投票による全30曲に魅力が凝縮された究極のベストアルバム
氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことの4人で、誰よりも速いスピードで時代を駆け抜けた伝説の軌跡。“大きなビートの木の下”で出会い、新宿ロフト〜渋谷公会堂〜日本武道館〜東京ドームへと一気に駆け上がった物語は、30周年を迎えて、ファン投票による全30曲に魅力が凝縮された究極のベストアルバムへと結実した。思えば、BOφWYは常にファンを誰よりも大切にして、ダイレクトでつながっていた関係性だったと思う。
数々のGIGの名場面を生み出した「IMAGE DOWN」、惜しくもリクエストで2位となった代表曲「NO.NEW YORK」、歌詞のメッセージ性が僕らの気持ちをアップリフトさせてくれた「DREAMIN’」、退廃的な美学を教えてくれた「わがままジュリエット」、快進撃のはじまりとなった「B・BLUE」、誰もが心に残るエモーショナル・チューン「ONLY YOU」、精神性を歌ったナンバーながらも名実共にナンバーワンとなった「MARIONETTE」、次世代のバンドスタイルを提唱してみせた「PLASTIC BOMB」、最後の最後で新境地を魅せた「季節が君だけを変える」、リクエストで1位を記録した名曲「CLOUDY HEART」などなど、4人が残してくれた愛すべき楽曲達。そして、あなた自身の思い出とリンクする“みんなの物語”。次世代へBOφWYをつなぐ次なる語り部=ストーリーテラーとなるのはあなただ。
※文中で、バンド名を「BOφWY」と表記していますが、2つ目のOは/付きが正式表記となります。