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偉大すぎる父の陰で過小評価されがちな息子たちも実は有能な武将だった!?

歴ブロ歴史の探求者

織田信長や武田信玄などのカリスマ武将の息子たちは、父が偉大過ぎて過小評価されがちでした。しかし、近年の研究で優秀な武将であることが分かってきました。そこで、偉大な父の陰でイマイチ評価されてなかった息子たちにスポットを当ててみたいと思います。

織田信長も実力を認めた信忠

織田信忠はかつて暗愚な凡将との評価を受けていました。しかし、信長も認めた非常に優秀な息子で、正統な後継者として岐阜城主にも任命されていました。

長篠の戦い後に信長から岩村城攻略の総大将に任命され、信忠は戦果をあげています。松永久秀討伐でも総大将として信貴山城を包囲し、海千山千の久秀を追い詰めて自害させています。1582年の武田氏侵攻の際も総大将として、信長が武田領に入る前に決着を付け武田氏を滅亡させる活躍を見せました。

本能寺の変では信長の救援に向かいますが途中で信長の死を知り、少ない手勢と共に明智軍と戦いますが力及ばず二条御所で自害。もし、織田信忠が生きていたら歴史は大きく変わっていたことでしょう。

武田勝頼は父・信玄より勢力を伸ばしていた

信玄から家督を継ぎ、長篠の戦いで敗れ武田家を滅ぼすキッカケを作った事で、父・信玄とは真逆の評価を受ける事が多いのが武田勝頼。

飛びぬけた勇猛果敢な若武者で、その武勇は信玄も認めるほどでした。徳川家康が死を覚悟した三方ヶ原の戦いでは、勝頼隊の猛攻により徳川軍を打ち崩しました。

かねてから徳川家との間で激しい争奪戦を繰り広げていた高天神城は、信玄でも攻略できない山城でした。しかし、勝頼が家督を継ぎ高天神城を落城させ、父が攻略できなかった城を攻め落としています。勝頼の活躍で信玄亡き後に領土は最大になり、甲斐、信濃、駿河、上野、三河、美濃の一部を持ち、信長に次いで二番目に領地を保有する大名まで成長しました。

しかし、周囲に徳川・織田・北条などの勢力に挟まれ敵が多く、家中をうまく統制することができずに滅亡の道を進みます。長篠の戦い前にこれだけの勢力を伸ばせたのですから、暗愚の将でなかったことは歴史が証明しています。

徳川家康も恐れていた豊臣秀頼

淀殿とセットで表現されることが多いのでどうしてもマザコンのイメージが強いのが豊臣秀頼。溺愛されて過保護に育てられたのは間違いありませんが、幼い頃から帝王学を学び頭が良く人望も厚かったそうです。また、達筆で秀頼の書いた書状を多くの大名がほしがったと言われています。

史料によると秀頼は身長190センチ以上で当時としても桁違いの体格でした。二条城で家康は秀頼に久しぶりに会ったところ、秀頼の風格と立ち振る舞いにこのまま放置してよい相手ではないと判断し、豊臣家を滅ぼす決心をしたとも言われています。

関ヶ原の戦い後は摂津・和泉・河内を治める一大名に転落しますが、豊臣秀頼は健在で徳川家を凌ぐ権威と家格を保持して君臨し、西日本の大名家に内政干渉を行ったりもしていたそうです。

江戸幕府設立後の豊臣家は徳川家よりも下になったイメージがありますが、それは間違いで両家は実質対等な立場にありました。豊臣家の威光がまだ強かったため、秀頼が成人したあかつきには関白の座に就き、再び豊臣治世が復活するとまで人々は思っていたようです。だからこそ家康は、自分亡き後も徳川の天下を盤石なものとするために、大坂の陣で豊臣家を排除しようとしたのです。

蹴鞠息子の今川氏真はかなりの多才だった

父・義元が桶狭間の戦いで討ち死にした事で、今川家当主になったのが今川氏真。しかし、最盛期だった今川家を自分の代で滅ぼしてしまったことで、暗愚の代名詞の扱いを受けます。

実際の氏真は文武両道の優秀な武将であったようです。

教養面では蹴鞠の名手で信長が指導してほしいと嘆願するほどの実力の持ち主でした。また、氏真は『集外三十六歌仙』にも名を連ねる一流の歌人でもありました。

武道の心得もあり、剣術は塚原卜伝から教えを受け弟子入りするほどの実力でした。塚原卜伝は将軍や大名にも手ほどきをした達人で、そんな名手から剣術の手ほどきを受けていたので腕前は相当だったようです。

また、領地を追われた後も戦国の世をくぐり抜け、幕府の高家※として家を存続させた功績は大きく江戸時代まで家名を残しました。

※高家とは江戸幕府における儀式や式典をつかさどる役職につくことができる家格の旗本の事を言います。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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