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戦争終結を早めたと言われる東南海地震から72年、「隠された地震」の被害はどうだったのか

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
三菱発動機大幸工場の空襲(名古屋大学医学研究科HPより)

戦時下に発生した東南海地震

戦争末期、1944年12月7日午後1時36分に、マグニチュード7.9の昭和東南海地震が発生しました。典型的な南海トラフ地震で、紀伊半島沖から遠州灘を震源域とした南海トラフの東側の一部が活動した地震です。2年後の1946年12月21日午前4時19分には、南海トラフの西側でマグニチュード8.0の昭和南海地震が発生しました。ちなみに、昭和の東南海地震と南海地震は過去の南海トラフ地震と比べ、やや小ぶりな地震でした。東南海地震では、1854年安政東海地震で活動した駿河トラフには震源域が及ばず空白域として残ったという考え方に基づいて、1978年に想定東海地震説に基づく大規模地震対策特別措置法が制定されました。

東南海地震の主な被害

強い揺れによる被害は、愛知県、静岡県、三重県の3県に集中し、津波による被害は三重県の海岸が顕著でした。戦時下の地震で、厳しい情報統制があったため、被害資料が十分に残されておらず、被害状況は十分には把握できていません。公表資料によると、地震による死者は、総計1,223人と言われています。県別では、愛知438人、三重406人、静岡295人、和歌山51人、岐阜16人、大阪14人、奈良3人となっています。被害は東海から近畿に広がっていますが、被害の中心は愛知、静岡、三重の3県でした。

隠された地震

東南海地震の翌日12月8日は、3回目の太平洋戦争開戦記念日にあたります。地元・中日新聞の8日の紙面は一面に昭和天皇の軍服姿が載り、戦時下を象徴する紙面でした。地震についての記事は、3ページ目に「天災に怯まず復旧」とのタイトルでの20行程度の記事があるだけで、「大きな被害はない」との内容でした。敗戦が危ぶまれた時期で、大きな地震被害は秘密扱いだったようです。このため、被害資料や新聞記事は地震規模の割に多くはありません。

一方、海外では、12月8日や9日のニューヨークタイムズに、地震のことが大きく取り上げられています。世界各地の地震計に基づいた分析により、震源は本州沖で、津波を伴った大きな被害を受けているはずとか、関東地震を超える被害が出たはず、と推測されています。連合国には、巨大地震の発生を隠すことはできなかったようです。

さらに、東南海地震の37日後の1945年1月13日には、誘発地震とも言える三河地震が発生しました。深溝断層が活動したマグニチュード6.8の地震で、死者は東南海地震の倍程度の2306人だったと言われています。多くの犠牲者を出した原因は、直下の活断層のずれに伴う強烈な揺れに加え、未明の地震だったこと、東南海地震で被害を受け弱くなった建物が多かったことなどが考えられます。

戦時下に起きた東南海地震と三河地震は、軍部による情報統制により「隠された地震」とも言われています。

大きな被害を受けた軍需工場

名古屋を中心とする中京地域には、多くの軍需工場が集中立地していました。東南海地震では、これら軍需工場が壊滅的な被害を受けました。なかでも名古屋市南区にあった三菱重工名古屋航空機製作所の道徳工場や、半田市にあった中島飛行機半田製作所山方工場・葭野工場では、工場が倒壊し、学徒動員により工場で働いていた中学生や女学生など多くの犠牲者を出しました。道徳工場では64人が、中島飛行機では、157人の方が犠牲になったと言われています。これらの工場に共通するのは、紡績工場を飛行機工場に転用するため、柱などを抜いたりして耐震性を落としていたことと、軟弱な地盤に立地していたことなどがあります。

この地震の6日後、12月13日には、名古屋空襲が始まり、三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が爆撃を受けました。飛行機のエンジンを生産する最重要工場で、現在は名古屋ドームや名古屋大学大幸キャンパスがあります。当日は、東洋一と呼ばれた東山動物園の猛獣も射殺されました。その後、名古屋は60回を超える空襲を受けます。震災と空襲で名古屋は壊滅することになります。これにより、日本の航空機生産能力は半分になったとも言われており、震災に始まる名古屋の壊滅が戦争終結を早めたと考えられています。

揺れによる被害が大きかった愛知県と静岡県

揺れによる建物被害が顕著だったのは、愛知県と静岡県です。愛知県では、軟弱地盤上の軍需工場が倒壊して、一か所で一度に多くの犠牲者をだしました。このため、半田市と名古屋市南区の犠牲者が突出しています。また、名古屋市港区・南区や幡豆郡福地村、半田市、海部地域の沖積低地など、強い揺れに見舞われた軟弱な地盤で多くの被害を出しました静岡県でも、太田川や菊川などの河川周辺の軟弱地盤上の集落で多くの家屋が倒壊しました。一方、三重県では、揺れによる家屋被害は顕著ではありませんでしたが、四日市市の埋立地では地盤沈下や生産施設被害が生じました。特に東洋一の高さと言われていた石原産業の煙突は上三分の一が崩壊しました。最近話題の長周期地震動に関わりがあるかもしれません。

津波による被害が大きかった三重県

津波による被害が顕著だったのは、三重県の熊野灘沿岸の漁村です。死者の多かった町村は、尾鷲町96人、錦町64人、吉津村39人、島津村34人、国府村32人などで、尾鷲などでは8~10mの高い津波が襲いました。

「諏訪地震」と言われた飛び地の被害

震源域から200kmも離れた長野県諏訪市でも、多くの建物が揺れによって被害を受けました。諏訪湖周辺は、地盤が軟弱な盆地構造をしているため、特異的に強い揺れに見舞われたようです。警察署長が、「諏訪市を中心とする地震」と発表したため、多くの諏訪市民は、「諏訪地震」と呼んでいて、内陸で起きた別の地震と理解していたようです。

地震規模の割に死者が多くなかった

東南海地震の死者は、地震の規模や被災地域の広域さににもかかわらず、千人程度でした。地震が発生したのがお昼ご飯を終えたあとの時間で、出火が少なかったこと、天候も良くて倒壊家屋からの脱出や救出などが容易で戸外にいた人も多かったこと、日々防空訓練が行われており地域の災害対応力が高かったことなどが幸いしたと思われます。

とくに、被災地の最大都市・名古屋市は、市街地建築物法の適用市であり、関東地震後に作られた耐震規定により建物の耐震化が進んでおり、住家の多くは熱田台地の上にあり揺れも相対的に小さかったと考えられます。このためか、1923年関東地震での東京市の死者68660人に比べ、東南海地震での名古屋市の死者は121人と1/500程度となっています。両市の人口は、208万人と134万人、地震の規模も震源からの距離もあまり変わりません。にもかかわらず、全潰世帯は35000戸と1200戸、焼失世帯は30万戸と2戸と大きく異なります。

改めて、危険を避けた良好な地盤の選択、家屋の耐震化、地域防災力の確保などの大切さが分かります。来る南海トラフ巨大地震に備え、備えの大切さを実感します。

なお、東南海地震と三河地震の被害についての詳細は、中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会「1944東南海地震・1945三河地震報告書」(平成19年3月)にまとめられていますので、ご覧下さい。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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