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1970年代英国ロックの“失われた鎖=ミッシング・リンク”ルイージ・アナ・ダ・ボーイズのアルバム発掘

山崎智之音楽ライター
photo courtesy of P-VINE Records

1970年代ブリティッシュ・ロックの秘められてきた至宝:ルイージ・アナ・ダ・ボーイズが蘇る。ツイン・ギターのハーモニー・リードをフィーチュアした、ウィッシュボーン・アッシュやシン・リジィを彷彿とさせるサウンドはパンク・ロック全盛の時代において異彩を放っていた。それゆえに1978年、自主制作でリリースされたアルバム『フィーリング・ザ・シーリング』は時代の狭間に沈んでしまい、バンドは長い沈黙に入るが、約45年の月日を経て遂に封印が解かれることになった。

バンドの創始メンバーであるギタリスト兼ヴォーカリスト、ダンカン・マクファーレンは1954年生まれの70歳という年齢だが、自らのダンカン・マクファーレン・バンドを率いながら、今も年数回、英国リーズ周辺でルイージの再結成ライヴを行っている。彼に1970年代の思い出と現在の活動、そして未来への展望を話してもらおう。

Luigi Ana Da Boys『Feeling The Ceiling』(P-VINE Records/2024年11月6日発売)
Luigi Ana Da Boys『Feeling The Ceiling』(P-VINE Records/2024年11月6日発売)

<当初からツイン・ハーモニー・リードを取り入れていた。カヴァーをやる気はなかった>

●ルイージ・アナ・ダ・ボーイズ(以下ルイージ)といえばツイン・リード・ギターのハーモニーがとても魅力的ですが、どのようにしてそのスタイルを確立したのですか?

私はスコットランドのエア(Ayr)出身で、英国空軍勤務の父に付いてあちこちを回ったけど、あるとき学校の友人たちが地元の酒場でコンサートをやるのを見に行って、聴いたことのない美しいギターのフレーズを耳にしたんだ。後で知ったけど、ウィッシュボーン・アッシュのファースト・アルバム『光なき世界 Wishbone Ash』(1970)からの「あやまち Errors Of My Way」のカヴァーだった。その前からフリートウッド・マックの「アルバトロス」を聴いて、ギターのハーモニーに魅力を感じていたんだ。でもウィッシュボーン・アッシュに惚れ込んだよ。『光なき世界』と『百眼の巨人アーガス』(1972)は未だに彼らの2大フェイヴァリットだ。自分がギターを始めた頃に聴きまくったし、リードのフレーズがゆっくり目だから練習しやすかったんだ。

●ルイージはどのようにして結成したのですか?

大学に入って、早速ウィッシュボーン・アッシュの曲をカヴァーするバンドを組んだ。1年半ぐらいして大学を中退したから、解散したけどね。ガールフレンドのパムと駆け落ちしたんだ(笑)。彼女と一緒にリーズに住んで、学校の技術作業員になった。それで軽音楽クラブで生徒たちにギターを教えながら、ジャムをやるようになったんだ。自分のバンドをやりたくなって結成したのがルイージだった。自分のオリジナル曲を書いて、プレイしたかったんだ。カヴァーをやる気はなかった。当初からツイン・ハーモニー・リードを取り入れていたよ。ドラマー志望の学生も加えて、地元のパブやクラブでライヴをやるようになった。1976年から1977年の初め、パブではオリジナル曲も受け入れられたんだ。今では誰でも知っている昔のヒット曲でないと、まったくウケないけどね。

●バンド名をルイージ・アナ・ダ・ボーイズにしたのは、リハーサルを始めたのが学校の理科実験室(lab)だったからだそうですが、どのような意味があるのですか?

リハーサルの後、よく近所のイタリア料理店でミーティングをしていたんだ。そこのシェフが歌いながらピザを焼いたり、とにかくキャラが立っていた。ある日、彼が従業員たちに「ルイージと男の子たちみんな!」と強烈なイタリア訛りで叫んでいた。それがLuigi Ana Da Boysと聞こえたんだ。頭文字を並べるとLABになるし、面白いからそれをバンド名にした。現代では外国人のアクセントをジョークにするのは不適切と思われるかも知れないけど、1976年は価値基準が異なる時代だったんだ。決してバカにしていたわけではないし、最近では単に“ルイージ”と呼ぶようにしている。サルヴォズってレストランで、今ではその叫ばれていた2人の息子たちが店を継いでいるよ。

●『フィーリング・ザ・シーリング』を作ることにしたのは、どんな経緯によるものでしたか?

1年ちょっとヨークシャー州の周辺でライヴ活動をして、ギャラを貯めた金でスタジオに入ることにしたんだ。その頃は既にパンク・ロックがブームになっていて、ルイージみたいな音楽は“恐竜ロック”と呼ばれた(苦笑)。みんなシングルを出していたけど、私たちはアルバムを作ることにしたんだ。とにかくアイディアがたくさんあったからね。それでレコーディングしたのが『フィーリング・ザ・シーリング』だった。レコーディングとミックス、マスタリング、レコード盤のプレスなどで制作費が尽きて、LPジャケットを印刷する費用がなかったんで、無地の白ジャケットと紙1枚のインサートだけを付けたんだ。今回の“ソマー・レコーズ”のリイシュー盤ではそのインサートのデザインを裏ジャケットに使っているよ。表ジャケットは当時のライヴ写真で、レコード会社がデザインしたものだけど、初期のウィッシュボーン・アッシュへのトリビュートといえるものなんだ(LP『Live From Memphis』<1972>)。私はアンディ・パウエルにジャケット画像のデータを送って「こういうデザインにしても良いですか?」と訊いてみたけど、快諾してくれた。

●アンディ・パウエルとはいつ、どのようにして知り合ったのですか?

1970年代の初め、私が17、18歳の学生時代にウィッシュボーン・アッシュのライヴを初めて見て、それから数え切れないぐらい足を運んできた。でもアンディと直接話すようになったのは比較的最近のことなんだ。数年前、私の友人マーク・エイブラムズがウィッシュボーン・アッシュにセカンド・ギタリストとして加入したんだよ(2017年)。彼がおそらくルイージのことをアンディに話したんだと思う。2020年からのコロナ禍で、Facebookに曲を上げていたんだけど、アンディが“いいね”を押してくれるようになったんだ。ちょっとしたコメントもしてくれて、昔からのファンとしては月の上を越えた気分だったよ(笑)。アンディと私はいろんな共通点があるんだ。十代の頃のガールフレンドと結婚して、それがずっと続いているとかね(笑)。

●あなたはどんなギタリストから影響を受けましたか?

ジェスロ・タルやキャメル、そしてウィッシュボーン・アッシュを聴いて育ったし、アンディ・パウエルやアンディ・ラティマー、マーティン・バーは大好きなギタリストだよ。それからシン・リジィのスコット・ゴーハムとブライアン・ロバートソンのコンビも素晴らしかった。ルイージを結成した頃、彼らが『脱獄 Jailbreak』(1976)を発表したんだ。「奴らは町へ The Boys Are Back In Town」などは、ツイン・ハーモニー・リードのあるべき姿としてヒントになった。ライヴ・アルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』(1978)も素晴らしかったね。それに伝統的なイングランドとスコットランドのフォーク・ミュージックのメロディからも影響を受けたんだ。ルイージを始める前から近所のフォーク・クラブに通い詰めていたよ。

【注1】

●今回『フィーリング・ザ・シーリング』が再発されることになった感想は?

『フィーリング・ザ・シーリング』を再発する話をもらったとき、当初は迷いもあったんだ。当時売れなかったアルバムを45年経って再発することに意味があるのか?ってね。オリジナル盤LPは1978年に千枚のみプレスして、すごいレア盤とされていて、ネットで1,600ポンド(約32万円)で売られているのを見たこともある。レア盤レコードのコレクター向けバイブル『Record Collector Dreams』にもジャケットが載っているし、もし再発したら、オリジナル盤の相場が下がってしまうんじゃないかとも思った。でも話によると、再発してもオリジナル盤が値崩れすることはなく、むしろ広く聴かれることでさらにプレミアが付くこともあるらしいよ。それに何よりも、当時ほとんど出回らなかった『フィーリング・ザ・シーリング』を多くの人に聴いてもらいたかったんだ。アンディにも再発の契約書を見てもらったよ。彼はずっとプロでやってきたし、こういう交渉事には慣れているからね。良い条件だと言ってくれたし、契約することにしたんだ。

●オリジナル盤LPが自宅に何箱もあったりしますか?

残念ながら2枚持っているだけなんだ(笑)。元々プレスした枚数が少なかったし、他のメンバーと分けて、レコード会社やラジオ局にプロモーションで配ったり、地元のインディーズを扱うレコード店で売ったりして、すぐなくなってしまったよ。

Duncan McFarlane 2024 / courtesy of Duncan McFarlane
Duncan McFarlane 2024 / courtesy of Duncan McFarlane

<日本に呼んでもらえるなら、バンド仲間に休みを取らせて飛んでいく>

●1977年といえばプログレッシヴ・ロックが徐々に下火になりつつあり、パンク・ロックが勃興して、まだヘヴィ・メタル・ブーム(N.W.O.B.H.M.)が始まっていない頃ですが、ルイージを取り巻く環境はどのようなものでしたか?

当時イギリスで絶大な人気のあった音楽紙“メロディ・メイカー”でルイージのライヴのレビュー記事が載ったことがあった。「バンドは優れたミュージシャンだ。...だからどうした?」と書かれていたよ(苦笑)。私はギターのメロディとハーモニーが好きだったけど、パンク・ロックにはそんな要素は少なかった。ただ実際のところ、パンク・バンドにもテクニックがあるものはたくさんいたんだ。リーズ音楽大学でジャズ・ロックやプログレッシヴ・ロックをプレイするバンドもいた。ただ、音楽マスコミはそんなバンドに目もくれなかった。若さやラフさが重視されたんだ。私たちはそんな流行り廃りは気にしていなかった。自分がやりたい音楽をプレイしていたよ。

●N.W.O.B.H.M.から巣立っていくアイアン・メイデンは1975年にロンドンで結成、やはりツイン・リードを武器にしていました。ジェフ・テイラーがルイージから脱退した後、ラフ・ジャスティスというN.W.O.B.H.M.バンドに加入していますが、ヘヴィ・メタルとはどのように関わっていましたか?

ヘヴィ・メタル・バンド達とは同じような場所で一緒にライヴをやったよ。リーズにはフォード・グリーン(Fforde Grene)というパブがあって、ルイージがよく出ていたけど、サノバビッチというバンドも出演していた。彼らはサクソンと名前を変えて。成功を収めたんだ。ただ当時、自分たちが特定のシーンに属していると考えていなかったし、コミュニティ意識は持っていなかった。仲は悪くなかったと思うけどね。ジェフは1年ぐらいラフ・ジャスティスにいて、後でまたルイージに戻ってきたんだ。それからずっと友達だよ。

●1979年、バンドの解散はどのようにして起こったのですか?

バンドの終わりが始まったのは、“チャペル・ミュージック”からパブリッシング契約のオファーを受けたことも原因のひとつだった。ルイージでは基本的にすべての曲を私が書いていたから、メンバー間の収入に偏りが生まれることになったんだ。他のメンバー達も曲を書きたいと主張したけど“チャペル”は「いや、金になるのはダンカン・マクファーレンだけだ」と、書かせようとしなかった。多くのバンドの解散理由として雑誌や新聞には“音楽的方向性の違い”と載るけど、ほとんどの場合、本当の理由は金の問題だよ。私はルイージを続けたかったし、バンド・ミーティングで「判った。じゃあ契約書は破り捨てて、地元で活動を続けよう」と提案したけど、ギクシャクした空気が戻ることはなかったんだ。

●その後のあなたの活動は?

ルイージが解散してからソロ・アーティストとしてフォーク・フェスティバルに出演するようになった。フィンガー・ピッキングでアコースティック・ギターを弾く喜びを再発見したんだ。それにフォーク・バンドでルイージのジェフ・テイラー、それからフィドル奏者と一緒にプレイしたよ。この編成はダンカン・マクファーレン・バンドに発展していき、もう5枚のスタジオ・アルバムとライヴアルバム、アコースティック・アルバムを発表した。自分の音楽キャリアの重要な一部だよ。オリジナル曲をプレイして、ギターのハーモニーがあるんだ。

●ルイージは2012年から不定期的に再結成ライヴを行っていますが、それから現在に至る流れを教えて下さい。

2012年にルイージとしての再結成ライヴをもう1人のギタリスト、ジェフ・テイラーとやったんだ。それを見てファンになった人から「音源はないの?」と何度も訊かれた。正直、1978年の音源は未完成だと考えてきたし、ミュージシャンとしても未熟だったから、当時の曲を再レコーディングして『Revisiting The Ceiling』(2015)として発表したんだ。『フィーリング・ザ・シーリング』をリメイクした『Rebuilding The Ceiling』、当時レコーディングしなかった曲を集めた『Following The Ceiling』という2枚の構成で、演奏もサウンドもこっちの方が良かったけど、興味深かったのは、リスナーが1978年という時代の“空気”を求めたことだった。LPレコードの収録時間に収まりきらないと一部分をカットした曲もあったし、ミスもあったけど、みんなオリジナルを聴きたかったんだ。『Revisiting The Ceiling』をリリースするとき、リリース・パーティーとしてリーズのクラブでライヴをやったんだ。300人規模の会場が満員になって、すごい盛り上がりだった。そのときも「オリジナルは再発しないの?」と何度も訊かれたんだ。だから今回『フィーリング・ザ・シーリング』を再発してもらって、本当に嬉しいよ。アルバムは“ノーブル・レコーズ”ストア限定で限定でブルー・マーブル盤LPも出るんだ。不思議にも感じるけど、とても嬉しいよ。

●『Revisiting The Ceiling』に収録されている未発表トラック集『Following The Ceiling』の楽曲は、1970年代に録音されたヴァージョンも存在するのでしょうか?

カセットテープに録音したラフなデモ・ヴァージョンぐらいはあるけど、それはリマスタリングしても高音質にならないし、リリース出来るクオリティではないんだ。当時はポータブル・レコーダーもないし、ラジカセみたいなので録ったんだよ。だから『Following The Ceiling』のヴァージョンが初めての公式レコーディングなんだ。ちなみにすべての曲が1970年代からのものではなく「Long Dark Road」は2012年の再結成ライヴに向けて書いた新曲だ。『フィーリング・ザ・シーリング』で叩いたドラマーのロブ・スティールズにもステージに上がって欲しかったけど、もう10年以上プレイしていなくて腕が錆び付いているというんで、あまり負担のない曲を書いたんだ。彼は完璧にプレイしてくれたよ。「Long Dark Road」をロックダウン中にFacebookに上げたら、アンディ・パウエルが「ビューティフルな曲だね。ぜひウィッシュボーン・アッシュでカヴァーさせて欲しい」とメッセージをくれたんだ。その日はずっと機嫌が良かったよ(笑)。彼らはまだ次のアルバムは作っていないようだけど、ぜひ実現させて欲しいね。

●ルイージとしての今後の活動は?

2024年内にはリーズから100kmぐらい離れたウィットビーという海岸の町でライヴをやるし、2025年にはルイージとしての新作スタジオ・アルバムを作ろうと考えている。今ルイージにいるギタリスト、サム・ハーストはヨークシャーで最高のギタリストの1人だよ。彼は子供の頃からライヴを見に来ていたんだ。ドラマーのバーニー・ギルモアやキーボードのスティーヴ・フォスターも昔から来ていた。そんな少年たちと今、同じバンドでやっているんだから、人生は不思議だよね!

●イギリス国外でライヴ活動は行っていますか?

ルイージではヨークシャー州を出ることがほとんどなかったけど、今やっているダンカン・マクファーレン・バンドではデンマークで数回、フランスやスペインのフェスティバルにも出演したことがあるよ。ルイージもソロ・バンドも私以外のメンバーはフルタイムの仕事をしているから、長期のツアーが難しいんだ。でももし日本に呼んでもらえるなら、彼らに休みを取らせて飛んでいくつもりだ(笑)。私たちはロックという大きな池に住む小さな魚だけど、『フィーリング・ザ・シーリング』を日本の音楽ファンに聴いてもらえたら最高だよ。

Luigi Ana Da Boys 2024 / courtesy of Duncan McFarlane
Luigi Ana Da Boys 2024 / courtesy of Duncan McFarlane


【アルバム情報】

ルイージ・アナ・ダ・ボーイズ

『フィーリング・ザ・シーリング』

P-VINE Records / 2024年11月6日発売

https://p-vine.jp/music/pcd-27085

【アーティスト公式サイト】

http://www.luigianadaboys.com/

https://www.duncanmcfarlane.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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