「会社のフェイクニュース」で、本当に信頼できる人が誰だかわかる
■噂の半分ぐらいは嘘
リクルートで新卒採用マネジャーをしていた頃、自分たちのやっていることがどう思われているのか気になり、ネットの評判をよくチェックしていました。そこで驚いたのは、感覚値として、おおよそ半分以上が「嘘」だったことです。
例えば、自分は最終決裁者であったので、内定出しをする張本人だったのですが、まだ一人も内定を出していない段階で、「リクルートから内定出ました。云々・・・」の書き込みがたくさんあったのです。
他にも、まだまだ採用活動を続けているのに「もう終わったらしいよ」とか、学校毎の採用目標など設定していないのに「学校毎で枠があるらしいぜ」とか、悪意を感じる嘘の口コミ情報があふれていました。
社外だけではなく社内での噂も似たようなものです。経営者や人事部長などをしていると、いろいろな人が「この部署はこうですよ」とか「この人はこんなことをしていますよ」とか、いろいろな情報を持ち込んできてくれるのですが、裏を取ると事実であることは半分ぐらいだったことを覚えています。タチが悪いのは、8割ぐらい本当で2割ぐらいの嘘が混ざった「嘘」でした。
■フェイクニュースの悪意に傷つく
性善説で人を信じることがポリシーである自分としては、こういうフェイクニュースを書きこんでいる人々も、何かどうしようもない事情があってそうしていると思いたかったのですが、単なる悪意以外にはなかなか見えず、少なからず傷ついたことを覚えています。
人間はやはり汚い、そんなことまでして、自分に有利になるように事を運びたいのか、と思ったわけです。
私は知名度が高い人間ではないので、自分について「口コミ」「噂」を公的なところに書かれることはまずありません。書かれても、誰にとってもほぼどうでもよいことなので、被害は微少です。
だから、あまり「口コミ」の当事者になったことはそれまでなかったのですが、リクルートという就職市場では否が応でも注目されてしまう会社の新卒採用責任者になって、はじめてその洗礼を受けることになったというわけです。
多くの方には「何をいまさら」ということだが、「火の無いところに煙は立たない」と素朴に考えていた自分には、こんなあからさまなフェイクニュースがこんな身近にあったということに驚きました。
■フェイクニュースを放置した理由
こんな風に当事者になってみれば、その噂がフェイクであるかどうかはもちろん簡単に分かるのですが、その時の自分はフェイクニュースに対して、嘆きはしたものの、特に対策は何もしませんでした。
それは、たわいもない噂であったということもありますが、それだけではありません。
一つの理由は、広まる噂は面白いから広まるわけであり、信じたいから広まるということです。この会社は、この人は、表面的にはこんな風に振るまっているくせに、ひとたび裏を返せば、本当はこんなにあくどい、ひどい状態なんだと言う「イメージ」が、何らかの大衆の心理的ニーズを満たす、心地よさを持っているから広まるわけです。そういう「結論ありき」の問題に立ち向かっても、無駄な努力だと思ったのです。人は信じたいものしか見ないし、見えないのです。
もう一つの理由は、「悪い噂」が「心地いい」というのは、それだけ、そもそもの会社や自分たちの評価が高いということを意味しているということだろうと思ったからです。そもそも、悪いイメージを持ったものに、さらに悪い「噂」など立ちはしません(当然なので)。よく「有名税」などと言われますが、例え悪い噂であっても、人々の言の端に上るというのは、どんどん認知度が高まっていくわけで、本来高い評価を勝ち得る力があることを考えれば、最終的にはプラスの方が大きいのではないかと思ったのです。
最後の理由は、結局、嘘なのだから、一見すると本当のような話であっても、曖昧な部分や矛盾した部分があって、現実世界と辻褄が合わないはずです。例えば、「学校別に採用枠を作る」などという馬鹿げた目標設定をするわけがありません。優秀な人がいても、学校枠で入れないなんて非合理なルールを決めている企業など生き残れません。噂に触れた人々の中で、優秀な人からどんどんそのことに気づいていき、結局、嘘の噂は雲散霧消していくことだろうと思ったので放置しても問題ないと考えました。
人の噂も七十五日、なんらやましいことがないのであれば、言い訳したり、うろたえたりする必要はないのだろうと考えたのです(ただ、それは自分についての書き込みではなく、会社についてだったから耐えられたのではないかと今では思います)。
■フェイクニュースは本当に信頼できる人を浮かび上がらせる
嘘の噂、フェイクニュースには、もう一つ素晴らしい機能があります。
それは、本当の理解者、本当に会社や自分を信じてくれている人を、浮かび上がらせてくれるということです。そういう人はフェイクニュースに触れたとしても簡単に信じたりしません。フェイクニュースに喜んで飛びつく人は、会社や自分を本音の内では信じてくれていなかった人です。
親鸞聖人は、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」とおっしゃいました。これぞ「信じる」ということではないでしょうか。
児童施設に勤める親友に聞いた話ですが、愛に飢えて、信頼に飢えて、非行に走った少年たちは、更生の途上で、必ずどこかで「裏切る」ということです。更生したと思った時に、再度何かしでかしてしまうのです。
しかし、それは本当は「裏切り」などではなく、周囲の人間の自分への信頼や愛を「試している」(試さざるをえない心性は、とても悲しいことですが、それはまた別の問題)のです。
本当に、信じてくれている人は、何かが起こったとしても、即座に「裏切られた!」と思うのではなく、「この子がこんなことをするのは、きっと何か深い理由があるに違いない。あるいは何かの間違いだ」と思うのだ、ということでした。
嘘の噂、フェイクニュースの持つ「甘い誘惑」にたやすくなびいてしまうのであれば、それはその会社や人を、信じているのでも、理解しているのでも、愛しているのでもないでしょう。
自分の会社に嘘の噂、フェイクニュースが流れた時(社内であれ、社外であれ)こそが、本当に信頼できる人を見つけるチャンスです。「裏切られたなら地獄に落ちたとしても後悔はしない」とまで言ってくれる人を見つける機会はなかなか得難いものです。
ともかく、噂など軽く信じないことが重要です。偏見を振り払って、この目で見たものだけを勇気を持って信じて生きていきたいものです。