大江千里「自由で自信に満ち、いつも周りに人がいて、でもどこか孤独で不安を感じていた」あの日々<前編>
初のシングル・コレクション『Senri Oe Singles』
デビュー40年目に突入する大江千里のアニヴァーサリー・プロジェクト第2弾、初のシングル・コレクション『Senri Oe Singles』が6月22日に発売され、好調だ。CD5枚組の初回生産限定盤<~Special Limited Edition~>は、EPICソニー時代のシングル曲に加え、プライベートレーベル“Station Kids Records”から発売したシングル曲を含む52曲が収録されている。さらに郷ひろみ、松田聖子、光GENJI、渡辺美里、渡辺満里奈など他のアーティストに提供したシングル楽曲も収録。シングルという、その時代時代の大江千里というアーティストの“顔“を並べ、まさにその軌跡を辿る内容になっている。
現在はジャズピアニストとして活躍しているニューヨークの大江にインタビュー。今回はシンガー・ソングライターとしての24年間を振り返ってもらいながら、40年というその活動のターニングポイントになった作品、出来事を聞かせてもらった。
『Senri Oe Singles』の<~Special Limited Edition~>には、大江がしたためた1万字超えのセルフライナーノーツが付属しているが、そこには当時の思いや感じたことを、その時代の空気と共に鮮明に伝えてくれている。
大学在学中にデビュー。EPICレコード小坂洋二氏との出会い
「シングルって『今、僕はこっちだよ。これが、ベスト・オブ・千里だよ』って、何か月かごとに音の名刺をリスナーへ渡しているようなもので。今回はリリースされた全部と、他のアーティストに提供した曲まで収録されたコンプリート盤なので、記憶をたどりながらも事実をネットで確認したりしながら(笑)」。
大江は「レコーディングは大学3回生、デビューは4回生」というように、1983年シングル「ワラビーぬぎすてて」とアルバム『WAKUWAKU』で、大学在学中にEPICソニーレコードからデビューした。当時同レコード会社で佐野元春を手がけていたプロデューサー・小坂洋二氏に出会い、デビューへと導かれ、その後も大江千里というシンガー・ソングライターを形作った小坂氏の存在は大きかった。1978年に設立されたEPICソニーレコードは、その先進的な音楽性で一躍シーンを賑わせるレーベルとして注目を集めていた。
「当時のEPICは、やんちゃな放課後のクラブ活動の延長を真剣にやっている、そういう雰囲気があって、スタッフはアーティストと同じ目線で愛情を注いでくれるレーベルでした。小坂さんには『君は詞をもうちょっと書けるようになったほうがいい、語彙を増やしたほうがいいね。映画を観た方がいいですよ」』って言われて、自分でも書けていないことはわかっていたので、3本立て400円とかの映画をネタ帳片手によく観に行きました。5~6曲世間に楽曲を出すと、ストックが底をつきそうなのも薄々わかっていたので、その頃ジャズに傾倒し藤井貞泰氏のジャズ教則本を読んで、自分なりに必死に勉強していましたが『その分のエネルギーを全部作詞作曲に注ぎ込もう』と努力しました」。
「『ふたつの宿題』は、シングル向きではない割と地味な曲なのにシングルになり、認められたと思った。これが転機となって歌詞を書くことが面白くなった」
「5~6曲出すとストックがなくなるのもわかっていた」と語ってくれたが、デビュー以来シングルもアルバムもコンスタントにリリースを続けていた。どの作品が自身では転換期、ポイントになっていると感じているのだろうか。
「2枚目のシングル『ガールフレンド』はアマチュア時代の余力、3枚目の『BOYS & GIRLS』もデビューから続いている熱、勢いで作って、4枚目の『ふたつの宿題』(1983年12月)が、転機という意味では最初かもしれません。当時ヒットしていたスパンダー・バレエの『トゥルー』を聴いて、ああいうギターのカッテイングの感じで始まる、日本語のバラードに仕上げようって思って。でも決してシングル向きってわけじゃないし結構地味だし、だから小坂さんが『これ、シングルとして出すぞ』って言った時は『あ、やっぱり出るんだ』って。こういう曲がシングルになってもいいんだって思ったし、それまで適当にやってた歌詞を頑張って、それを何気に認めてもらったというか、だからこれが転機で歌詞を書くことが面白くなってきました。その後『十人十色』(1984年1月)がスマッシュヒットして、あの曲で、自分が見た情景を、曲の中の登場人物に馴染ませながら背景として書くというすべをどことなく会得した実感がありました。でもすぐに次の『REAL』(1985年3月)でまた大きな壁があり、すぐに行き詰って。自分に言い聞かせているようなサビの、<リアルに生きてるか>というフレーズのあとが全然出てこなくて…。もがいて、動いて、あちこちうろうろしても、どうしても書けなくて、なんとその部分は結局レコーディング当日スタジオのトイレの個室で完成させたんですよ」。
道で占い師に突然呼び止められ、言われたこと
「当時、住んでいた奥沢の近く、自由が丘の商店街を一人でトボトボ歩いていたら、占いのおばちゃんに呼び止められて、『あなたの顔には人徳がない』っていきなり言われて。『全てにおいて自分のことが最優先になっていて、近い将来仕事仲間が離れるよ。今やってることは自ずと全部自分に還ってくるって。あなたはこめかみに“徳”っていう字が浮き出るくらい、周りのことをまず考えられる人にならないと、これから先は今みたいに上手く物事が進まなくなる』って、腕を掴んで切々と諭されたんです。その時は『ひどいこと言うなぁ』くらいにしか思っていなかったのですが、その直後に二人三脚でやってきたマネージャーが辞めたり、周りの人の顔ぶれが変わり始めました。デビュー以来いっぱいいっぱいだったので周りのことにまで気を配れず、そんなこといきなり見ず知らずの人に突然言われて納得いかず、憮然としました。でも明日大阪に行かなきゃいけないから、今伝えなきゃいけないことを伝えるって。お金は払わなくていいって彼女に言われて、なんか妙にそれが信憑性があって(笑)。よっぽど僕の顔には徳がなくてこめかみがツルツルだったんでしょうね」。
「マリアじゃない」の歌詞に、無意識のうちに出てきた言葉
デビューアルバム『WAKUWAKU』、続く『Pleasure』(1984年)で曲のストックは尽き、『未成年』(1985年)、『乳房』(同)で出し切ってしまったと感じた大江は、自分を見つめ直す時間が必要と感じ、旅に出る。
「自分をちゃんと磨かなければ、と思って自分探しの旅でロスへ行って、でも帰ってきてからもモヤモヤしたままで、ずっと探し続けて、やっと書けた曲が『きみと生きたい』(1986年)です。それまで神戸の大学生が勢いに乗ってがむしゃらにやってきて、いきなり『乳房』でガクンと途切れどうやったら次へ行けるかと、一人の時間を持て余しながらもがいた。で、僕がやっと人として前を向き歩けるって再生できた感じで書けた曲が『君と生きたい』でした。並行して『マリアじゃない』(1986年アルバム『AVEC』に収録)を書いてて、その歌詞の最初が今思うと<あなたの右のこめかみの険しさがすきよ>なんですよね。なんと、あの占い師の言葉が頭に残っていました。この歌詞の部分は鍵括弧になっていて、彼女のポツリ話す会話なんですが、その行間には、『徳を積め』と占い師のおばちゃんに言われた鮮烈なひと言が残ってたんでしょうね。それが『険しさが好きよ』になって無意識で歌詞になった(笑)」。
数々のアーティストがカバーする「Rain」が、初シングル化(7インチアナログ盤)
40周年プロジェクトの第一弾では、これまでシングル化されていなかった「Rain」(『1234』(1988年)収録曲)が、7インチアナログ盤という形でついにシングルカットされた。カップリングには、2018年に発表したアルバム『Boys & Girls』に収録されているJAZZヴァージョンを収録。過去と現在の活動とを繋ぐシングル盤になっている。秦基博を始め、多くのアーティストにカバーされ、スタンダードナンバーとなっているこの作品について、改めて聞いてみた。
「『Rain』だけ特に思い入れが強いわけじゃなく、どの曲にも思い入れも思い出もあって、産んだ親としてはどの子も公平です。ただこの曲はコロコロ転調を繰り返すので、歌うのは結構難しいし、言葉も次から次へとセリフのようにこぼれ出る感じなので、歌う人は大変だと思います。それが昨今では世代を超えた人たちが歌って下さり、僕もYouTubeで聴くんですけど、それぞれにそれぞれの世界観があってすごいなって感じています」。
「大村(雅朗)さんとは最初に会ったときから、もしかして兄と弟?ってくらい言葉がなくても分かり合えた」
この曲のアレンジは名匠・大村雅朗。アルバム『AVEC』(1986年)、シングル「Bedtime Stories」、アルバム『OLYMPIC』(1987年)、アルバム『1234』(1988年)でタッグを組んで作り上げた、大江にとって最高の、そして最強のパートナーだった。
「大村さんは、最初に会ったときから、もしかして兄と弟?ってくらい言葉がなくても分かり合えたし、血がつながってるのかなっていうぐらい何も話さなくても全てが心にある音像になっていくのを感じました。最初のレコーディングは確か『平凡』だったと思う。僕はデモで細かいフレーズを指定するタイプで、色々カセットにピアノで細かいフレーズを歌いながら入れたり、譜面に文字で更なるニュアンスを記入したり、アレンジャーからすればうるさいタイプなんだけど、大村さんは全然厭わず受け止めてくれて、気が付くと僕の頭の中の音像がほぼそのままに仕上がっていてビックリしました。で、大村さんはというと、スタジオのロビーでインベーダーゲームをやっている(笑)。『Rain』は大村さんの頭の中にこうすれば良くなるっていう音像があったはずなんです。でも僕が『もっと人肌感じる弦多めで』とか色々うるさくリクエストすると、大村さんはその度『えー本当? クールじゃなくなっちゃうなぁ』って不満そう。でも仕上がって見るとちゃんと弦も入れてくれて最後には理想の音に仕上がっている。全部の音が仕上がって最後の最後には佐橋(佳幸)君がギターを入れてくれたんだったな。あれはもういっぱい音が入ってたから、音の隙間を見つけるの大変だったと思う。でもいい感じに仕上がったんだよね。緊張もしたしでもすごく同じ方向を向いて向き合ったのを覚えてるな」。<後編>に続く