藤田菜七子だけじゃない。JRAでデビューしたある女性ジョッキーの苦悩と現在
藤田菜七子の前にもいた女性ジョッキー
JRAの女性ジョッキーといえば藤田菜七子の活躍が注目されている。
しかし、彼女より前にも女性騎手は存在した。福永祐一ら1996年デビューの同期は“花の12期生”と呼ばれ、その中には現在リポーターとして活躍している細江純子や愛らしいルックスで人気となった牧原(現増沢)由貴子など3人の女性騎手がいた。
その後も3人がデビューを果たした。
しかし、残念ながら皆、騎手としては一流といえる成績は残せないまま引退している。
今回はそんな1人を取り上げ、生い立ちからジョッキー時代の苦悩、そして現在までを紹介しよう。
苦しい時に助けてくれたのは……
西原玲奈が生まれたのは1981年11月20日。佐賀県で、家具屋を営む父・隆志、母・まゆみの下、3人姉妹の次女として育てられた。
「男の子と一緒に木登りしていた」と言う彼女は、小学校でバレーボール、中学ではソフトボールに興じる活発な女の子だった。
中学生になったばかりの頃だった。父がみていた競馬に興味をそそられた。
「動物が好きだったし、牧原さんや中津競馬の小田部雪さんらをみて、女性でもなれることが分かると興味を抱きました」
中学3年となり、将来の進路を決める時「騎手になりたい」と両親に告げた。
「母は心配そうな表情をしていましたが、反対はしませんでした。父には『中途半端な気持ちなら高校へ行きなさい』と言われました」
再度、自問した結果、気持ちが固まり乗馬を始めた。そして、JRA競馬学校を受験すると合格した。
学校は「他の生徒は男の子ばかりで弱音を吐く相手がいなかったし、心配をかけたくないから親に相談するわけにもいかなかったので精神的にキツかった」。
それでも辞めずに続けられたのは、“ある助け”があったからだった。
「悩んだ時、苦しい時は馬に語りかけました。彼等が話を聞いてくれたから、なんとか乗り切ることができました」
念願の騎手デビューも、焦りから歯車が狂いだす
2000年、須貝彦三厩舎からデビューした。
「師匠は昔ながらの厳しい先生でしたけど、女性に対する理解が難しい中、競馬にたくさん乗せていただけました」
同年3月4日のデビュー戦は「パドックから緊張して何もできないまま終わった」が、1カ月と経たない同月25日、キンザンウイニングに騎乗して初勝利を挙げた。
「先輩女性騎手の押田純子さんでも勝っている馬でした。引退の話もあったらしいですが、私のためにオーナーが残してくれて、勝つことができました。苦しい思いが全て吹き飛ぶくらい嬉しかったです」
序盤は順風満帆。カシノハミングでの新馬勝ちなどデビュー2年目を終えた時点では15勝を記録した。
「数も乗せてもらえたし、楽しかったです」
しかし、3年目は小さな怪我もあり乗り数が減り、勝てなくなった。
「焦りもあって自分から障害レースへの挑戦を決めました」
中京競馬での障害戦初騎乗が決まると、実家に電話を入れた。
「自分の意志で乗ることを報告すると、母は黙って受け入れてくれました」
レースには「緊張もしなければ、怖いという気持ちもないまま臨むことができた」。ところが「それが良くなかったか……」。
西原は落馬。腰椎圧迫骨折の他、腓骨や脛骨も骨折する重傷を負い、名古屋の病院に緊急入院した。
「すぐに九州から母が駆けつけてくれました。『まだ続けると?』と聞かれたので『やりたい』と答えると『あなたが続けたいなら……』と言ってくれました」
骨は折れても騎手を続けたいと願う心は折れなかった。復帰までは1年を要したが、ターフに戻ってきた。
「ただ、減量もなくなっていたので乗せてもらえなくなってしまいました」
藁をも掴むつもりで他厩舎の調教も手伝った。しかし、そのことで師匠と仲違いした。
「今、考えると先生が私のことを考えていてくれたのが分かり、ありがたみを感じます。でも、当時は私が若くて喧嘩別れみたいな形で飛び出してしまいました」
フリーになったからといって騎乗依頼が増えることはなかった。他の騎手達が競馬場へ出向く週末に、トレセンに残り、調教に跨る日々が続いた。
「この時が1番苦しかったです。騎手なのに競馬場に行けないほど辛いことはありません。周囲の皆は『頑張れ!!』って言ってくれたけど、どう頑張れば良いのかが分かりませんでした」
2005年、30回騎乗したもののついに未勝利で終わると、08年まで勝てない日々が続いた。
横山典弘らのアドヴァイスで目が覚める
「さすがにどうして良いか分からず、調整ルームで先輩方に相談しました」
すると、横山典弘や安藤勝己、藤田伸二らが真剣に話を聞いてくれた。
「乗り数自体が減る中で、『いかに失敗しないように乗るか』ばかり考えていたのを、安藤さんや藤田さんに見抜かれていました。ノリさんにも『もっと楽しんで乗れ』と言われ目が覚めた思いがしました」
これを境に気持ちが変化した。
「『小さい頃からなりたかった騎手になれたんだから』と思ったら、たとえ勝てなくても楽しく乗れるようになりました」
そして09年。公営でと言え5年ぶりに勝ち星を挙げることができた。
転身。そして現在
そんなある日、ある調教師から声をかけられた。
「梅田(智之)先生に『うちで調教助手として働いてみないか?』と言われました。梅田厩舎のスタッフは皆、以前から知っている人達。この厩舎なら遣り甲斐があると思い、転身を決めました」
2010年、騎手を引退。調教助手となった。
梅田の片腕となって6年目の15年。追い切りで騎乗するレッツゴードンキが桜花賞を制した。騎手時代には夢だったG1を優勝すると、17年には同馬の香港遠征にも帯同。掛かる面もあり、乗りやすい馬ではなかったが、過去の経験を活かして乗りこなした。
「梅田厩舎で働き出してすぐ、ショウナンマイティに毎日、跨らせてもらえました。気性が激しいせいで折り合いが難しく、脚元も不安のある馬でした」
それでもG1・安田記念で2、3着するなど好走した。
「私がもっと上手に調教できていればG1を勝てていたはずです。一生忘れられない馬。今はマイティとの経験を活かすことが彼への恩返しだと考えています」
ここまで言うと梅田に感謝の言葉を続けた。
「梅田先生は任せてくれた上で、何かあれば責任をとってくれます。今は『女性だから』と感じたこともないし、本当に楽しくやらせてもらっています!!」
“今は”というところに、騎手時代はやはり女性であることの厳しさを感じることもあったと思わせる。そう問うと、それにはかぶりを振って答える。
「菜七子ちゃんが活躍をしているのをみると、結局は私が下手だったのだと思います。女性だから、というのではなく、単純に力不足でした」
2016年に結婚し、姓が前原に変わった彼女は、同じ年、「今まで心配をかけてきたことに対し、少しでも親孝行をできれば」と九州に住んでいた両親を栗東トレセンの近くに呼び寄せた。
たしかに彼女は騎手として成功したとは言えないかもしれない。しかし、現在は充実した幸せな毎日をおくっている。第二のホースマン生活、いや、ホースウーマン生活がもっと輝けるそれになることを願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)