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「どうする家康」織田信長が徳川家康の耳を噛むということはありえたのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が徳川家康の耳を噛んでいたが、そういうことがありえたのか考えることにしよう。

 元亀元年(1570)6月28日、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍と姉川(滋賀県長浜市)と戦い勝利した。勝利の決め手になったのは、家康の活躍にあったといわれている。合戦シーンがなかったのは、非常に残念である。

 ところで、今回は姉川の戦いに際して、毎度のごとく岡田准一さん演じる織田信長は、徳川家康に対して高圧的な態度を取っていた。挙句の果ては、耳に噛みついて家康を脅す始末である。むろん、これは史実として認められず、演出の一つだろう。

 永禄3年(1560)に信長が桶狭間の戦いで今川義元を討つと、家康は岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還した。その後、家康は今川氏真(義元の子)と関係を断ち、信長に味方することを決意した。これには、家臣も賛意を示したはずである。

 家康が信長と同盟を結んだのは、義元の死で混乱した今川氏が弱体したからである。当時の家康は西三河を基盤としていたが、東三河には今川氏の勢力が及んでいた。そこで、家康は今川氏を討つべく、信長との同盟締結を選んだのである。

 一方の信長にすれば、当時は美濃斎藤氏と交戦中だったので、渡りに船のことだった。さすがの信長も、家康まで相手にして戦うのは大変だった。一般的に2人の同盟締結は、信長が上、家康が下というように思われているが、決してそうではない。

 あくまで2人は対等な関係であり、それは足利義昭が信長によって追放される天正元年(1573)まで続いた。その後、家康は信長に臣従するように立場が変化したのである。

 そのように考えるならば、いかに信長とはいえ、家康に高圧的な態度で接し、ましてや耳を噛むなどありえないだろう。武士というのは誇り高い存在であり、相手から辱めを受けると、決して黙っていなかった。信長もそれくらいは知っていたはずである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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