元女性騎手が32年の時を経て海の向こうで実らせた恋の物語
1987年4月。キーンランド競馬場はこの年の開幕日を迎えていた。第1レースが迫った女性ジョッキールームで、落ち着かない1人の東洋人女性騎手がいた。
「サンディーという可愛い名前の女性騎手が1人来ない。遅刻ならサンディーちゃんは騎乗停止処分になってしまう」
人の良い彼女はそう思い、他の騎手に声をかけようかとしたところで、ふとひらめいた。
「バレットから伝えてもらえば確実だわ」
早速、彼女のバレットが誰かを聞いて、言った。
「貴方のジョッキーにすぐ女性騎手室へ来るように伝えてください」
男の子として育てられて浦和で騎手デビュー
土屋登は浦和競馬場で調教師兼騎手をしていた。妻・房子との間には2人の女の子を授かっていた。しかし、自分の仕事を受け継いで欲しいという思いから男の子を切望。房子は3人目を身ごもった。その子が産声をあげた時、登はがっくりとうなだれた。またも女の子だったのだ。
1958年1月20日、こうして生まれたのが土屋薫だった。
登は女の子の薫を騎手にすべく、男の子のように育てた。そして、高校を卒業した後、正式に競馬の世界に入ると、77年、二十歳の時に南関東競馬初の女性騎手としてデビューした。
「佐々木竹見さんを始め多くの先輩方に大変よくしていただきました。競馬会の方々もすごく良くしてくださいました」
毎朝、誰よりも早く厩舎へ行き、徐々に乗り鞍を増やした。コツコツと努力を重ねて勝ち鞍も増えていった。
しかし、そんな中、一部の人間が女性として特別な目を向けてくる事にも気付いた。実力で勝負したいという気持ちとは裏腹、「女だから乗せてもらえている」と言われた事もあった。客寄せパンダ的に扱われる日もあった。我慢して耐えていたそんなある日、地方での招待レースで事件が起きた。
「もちろん今ならあり得ないし、ほんの一部の人の行動ですが、いわゆるセクハラをされました」
競馬に乗れる精神状態ではなくなったため、騎乗をキャンセル。すると職務怠惰とみなされ、騎乗停止処分となった。色々な意味で時代がまだ彼女に追いついていなかったのだ。
悩んだ末、太平洋を越えた
悩んだ土屋は思い切った行動に出る。通算97勝を挙げていながら、大台には目もくれず、南関の騎手免許を返上。27歳になった85年、なんと、太平洋を飛び越えて次なる戦いの場を求めたのだ。
「父が乗りたがっていたアメリカに自分としても憧れがありました」
ダメ元で飛んだ希望の国。馬の街で知られるケンタッキーで過ごした。
「英語もそれほど話せなかったので、ホットウォーカー(曳き運動専用厩務員)から始めました」
性的な差別をされる事はなく、やがて努力が認められた。86年、念願の騎手デビューを果たしたのだ。
「その後は沢山乗せていただきました。1日に2場で計18レースに騎乗した事もあったし、大きなレースを勝たせてもらえた事もありました」
圧倒的1番人気のパット・デイが乗る馬を全くの人気薄の馬で競り合いの末、負かした時は競馬場全体が水を打ったように静かになったと言い、更に続ける。
「レース後2時間ほどして、パットが私の元を訪ねて来てくれました。そして『僕はミスをしていない。君が完璧に乗った』と言って褒めてくれました」
以来、この伝説の騎手と懇意にするようになった。
また、カナダのリーディングトレーナーであるマーク・キャシーにも1度だけ依頼された事があった。
「そのレースは騎乗馬が暴走してラチを飛び越えて競馬場の外の駐車場まで行ってしまいました」
必死にしがみついていた土屋は、一緒にラチを飛越した。
「駐車場でついに落とされました」
すぐに飛んで来た男性が手を差しのべてきた。「私は大丈夫です」と土屋が言うと、彼はかぶりを振りながら言った。
「いいえ。駐車代の3ドルをお支払いください」
様々な経験と共にアメリカ通算263勝を挙げた土屋は「自分なりにやり切れた」と92年に騎手を引退。94年には結婚をした。
偶然の出会い。そして、別れ
冒頭に記した出来事はデビュー2年目の事だった。
87年4月のキーンランド競馬場。
「サンディーちゃんのバレットだという人に『すぐにジョッキールームに来させて』と伝えました」と土屋。
それからしばらく後「貴方を訪ねて来ている人がいる」と外へ呼び出された。いぶかしく思いつつ女性騎手室から出ると、目の前にいた1人の小柄な男性に声をかけられた。
「僕に何か用かい?」
それがカナダの名手サンディー・ホーリーとの出会いだった。
「後になって彼が素晴らしい騎手という事を知ったのですが、当時は知識が無かったため名前から女性だと勝手に勘違いしていました」
サンディー・ホーリーはカナダ版のダービーにあたるクイーンズプレートを4勝、73年には当時の年間最多勝記録となる515勝を挙げ、76年にはカナダの国民栄誉賞にあたるオーダーオブカナダを受賞するほどの大人物だった。
驚いた土屋だったが、サンディーは違う意味で面喰らっていた。
「呼ばれて行ったらとてもキュートな子だったのでひと目で気持ちが晴れました」
この前年、サンディーは癌の告知を受けていた。手術は成功したが、いつまた再発するかと落ち込む日々の中での出会いだった。ここから彼の猛アタックが始まった。
「3回食事に行きました。彼が他の地区へ行ってしまった後も『飛行機代を出すから来て欲しい』と誘われました」
しかし当時は土屋も騎手として軌道に乗り始めたところ。おいそれと旅立つわけにはいかなかった。
そんなある日、サンディーの知人から衝撃の連絡が入った。
「癌が再発し、余命2カ月と宣告されたため、カナダへ緊急帰国したと聞かされました」
携帯電話などまだ無い時代。これを境に2人の仲はぷっつりと途絶えた。
32年の時をまたいだ結末
ところがカナダへ戻ったサンディーはしばらくしてから不死鳥のように蘇った。1998年に騎手を引退するまでにカナダリーディングになること実に9回。殿堂入りを果たした。
「余命2カ月と宣告されても諦めずにワクチンを打ちながら食事療法にも励みました。主治医からは『なぜ生きているのか分からない』と言われたけど、生きているどころかすっかり元気を取り戻す事が出来ました」
そんな事とはつゆ知らずの土屋は、15年にある男から声をかけられた。
「マーク・キャシーでした」
駐車場事件の調教師だ。彼の馬に乗ったのは後にも先にもその1回だけだったが、あまりに衝撃的な結末に、彼は土屋の事を覚えていてくれたのだ。
「彼からカナダの騎手であるデイヴィッド・モランを紹介されました」
初対面のモランに、土屋は伝えた。
「多分、彼は私の事を覚えていないと思うけど、これを渡してください」
そう言って、自分の名刺をサンディーに届けてくれるよう託した。
するとすぐに見知らぬ番号から電話が入った。そして、電話の主は言った。
「私は28年間、カオルの事を忘れた日は無かったよ」
サンディーだった。
とはいえ、当時のサンディーは既婚の身。2人の息子にも恵まれていた。しかし……。
「妻とは別居中で離婚へ向け話を進めている最中でした」
翌16年、2人は29年ぶりの再会を果たした。
「彼女は29年前より英語が上手になり、お喋りになっていました。でも、人柄の良さとキュートさは変わっていませんでした」
その後サンディーは前妻と正式に離婚した。
一方、土屋は14年に当時の夫と死別していた。初めて出会ってから32年の時を経て、2人は19年3月に晴れて籍を入れるに至った。2人の友人でもあるパット・デイが牧師を務めた結婚式には、サンディーの2人の息子も笑顔で参列。披露宴の司会はクリス・マッキャロンがとり行った。
「前回は癌、今回は離婚問題。私が悩んでいる時にいつもカオルは現れた」
サンディーはそう言い、更に続けた。
「32年前に初めて会った時から、彼女と結婚したいと思っていました」
32年前のキーンランド競馬場。もし土屋がサンディーをその名前から女性と勘違いしていなかったら……。もし、バレットではなく他の騎手に聞いていたら……。もし、マーク・キャシーの馬で暴走していなかったら……。もし、互いの前パートナーとの別れがなかったら……。
人生はほんの少しの偶然とタイミングに大きく左右されるものである事は確かだろう。しかし、その機が訪れた時、再び物語が始まるかどうかは、互いの気持ち次第だ。32年の時を超えて2人が幸せを掴めたのは、それぞれが相手を想う気持ちを忘れていなかったからに他ならない。土屋はカナダの伝説のジョッキーの事を、今でも愛情を込めて「サンディーちゃん」と呼んでいる。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)