プロ選手、歌手、そして公務員へ。なでしこのレジェンド、小野寺志保さんが歩んだユニークなキャリアの原点
【新たな「夢」を模索する中で】
なでしこリーグ300試合出場、日本女子サッカーリーグ優勝9回。FIFA女子W杯3回、五輪2回に出場。小野寺志保さんは、読売ベレーザ(現日テレ・東京ヴェルディベレーザ)と日本女子代表の守護神として活躍した、なでしこのレジェンドの一人だ。
現在は地元・神奈川県の大和市役所の職員。大和市は「女子サッカーのまち」として、毎年、元日本女子代表選手を招いたサッカー教室や交流戦などのイベントを開催しており、小野寺さんはその企画から運営までをこなす。そして、大和市をホームタウンとする女子サッカーチーム、大和シルフィードのGKコーチの顔も持つ。
神奈川県は過去に多くの女子サッカー選手を輩出しており、2011年の女子W杯ドイツ大会で優勝したなでしこジャパンは、21名中9名が神奈川県出身だった。そのうち、大野忍(大宮アルディージャVENTUSコーチ)、川澄奈穂美(スカイ・ブルーFC)、上尾野辺めぐみ(アルビレックス新潟レディース)の3名は大和市にゆかりがある。川澄と上尾野辺は、シルフィードの1期生である。
シルフィードは、今年秋に開幕するWEリーグ(日本女子プロサッカーリーグ)に参加申請をしたが、リーグ参入基準である「椅子席5000席以上のホームスタジアムを整備する」などがハードルとなり、初年度の参入は見送られた。そのため、今季はなでしこリーグ1部で優勝を目指す。一方で、来季以降のWEリーグ参入に向けて、クラブと市が協力して準備を進めている。そうした中で小野寺さんは、行政とクラブの繋ぎ役を果たす。引退後のキャリアに悩む選手も多い中、専門性を生かすこともでき、幅広い分野で長く活躍できる公務員は魅力的な仕事だ。
小野寺さんは、2008年に現役引退後、ユニークなキャリアを歩んできた。どのようにセカンドキャリアを模索したのだろうか。
「選手時代は毎日シュートを止めることだけを考え続けて、気がつけばそれを20年間、やっていたんですよ。2008年に引退したときは満足して、これ以上ないやめ方でした。でも、やめてからは何を考えて生きていいのか、わからなくなってしまったんです。夢中になって何かを追いかけている時間がどれだけ素晴らしいか、改めて感じました」
旺盛な好奇心と優しさを足して割ったような屈託のない笑顔は、現役時代から変わらない。歳を重ねても若々しく、話せば親しみやすさと包容力を感じさせる。一方、サッカーの「心・技・体」に精通した言葉は引き出しが多く、辿ってきた非凡なキャリアを想起させる。
小野寺さんは、ベレーザの選手として1989年から2008年まで20シーズン活躍した。一方、日本代表選手としても、95年から04年までの激動の時期を経験している。
90年代初め、日本女子サッカーリーグはバブル景気の余韻やJリーグ開幕の機運も手伝って、多くの外国人選手が集まる世界有数の華やかなリーグだった。しかしその後、バブルが弾けて支援企業が次々に撤退し、代表が2000年のシドニー五輪に出場できなかったことで、女子サッカーに冬の時代が訪れる。リーグは各チームの休部や廃部が相次ぎ、ベレーザも例外ではなかった。
だからこそ、04年のアテネ五輪への切符をかけたアジア予選は、「絶対に負けられない」大会だった。準決勝の北朝鮮戦は、国立競技場になでしこジャパン史上最多となる31,324人の観客を集めた、今も語り継がれる伝説の一戦だ。小野寺さんはこの試合をベンチから見守ったが、勝利に向かって一体となったチームは、過去13年間勝てなかった相手を3-0で圧倒。日本中が注目した試合で、アテネ五輪への切符を掴んだ。
本大会はベスト8だったが、小野寺さんは最年長選手としてチームを支えた。この時期、チームを駆り立てていたのは、「女子サッカーの火を消してはいけない」という思いだったという。リーグや各チームの存続が、代表選手たちの肩にかかっていた。当時、ベレーザの選手たちは、日々の練習から勝利に強いこだわりを見せていたという。
「ミニゲームでも、負けたら『なんで負けたんだ!』と本気で悔しがって、勝ったら大喜び。リフティングでも、落としたらすごくガッカリする。とにかく一つひとつの勝負にこだわっていました」
小野寺さんも日々、シュートを止めることに全神経を集中させ続けたのだろう。そうした日々を過ごした後、引退後に突如として訪れた空白を埋めるのがどれだけ大変だったかは、想像に難くない。
現役中は競技に100%を注ぎ、引退してから次のキャリアを模索するアスリートもいる一方、競技だけで生計を立てることが難しい競技などでは、現役中にもう一つのキャリアを実践する「デュアルキャリア」の有効性が言われている。小野寺さんも、行動を起こしたことがある。
「現役中に、『サッカーをやめた後に困るだろうな』と考えることはありました。2008年の引退前の2年間はプロ契約で、少し時間があったので、行政書士になるための参考書を買って、日中勉強してから練習に行ったんです。そうしたらその日の練習のパフォーマンスが良くなくて、これはダメだ、と。一本のシュートを止めることにこだわり抜くためには、思考や神経を研ぎ澄ませた状態でグラウンドに入らないといけないんです。それで、行政書士は後でも勉強できると思い、サッカーに集中することを考えました。それが両立できるなら、した方がいいと思います。ただ、私はシュートを止めること以外のことはすべて排除しなければ、代表も含めて今のキャリアにならなかったと思いますし、そこに後悔はないですね」
そして、引退後はマネジメント会社のサポートを受けながら、「JFAこころのプロジェクト」の「夢先生」や、Jリーグのレポーターの仕事をこなす日々を送った。だが、ここで大きな悩みに直面したという。
「夢先生はすごく大事なお仕事で、毎日のように小学校に行って、子供たちに夢の大切さや、夢に向かって頑張ることを伝えました。でも、それを伝えている自分が何に向かっているのか、夢を持って話せていないことがだんだん苦しくなってしまって…。『次の夢を見つけなければいけない』と、日常でも夢中になれることを探し続けました」
引退翌年の09年には歌手デビューも果たしている。歌うことが好きで、縁があってボイストレーニングに通うことになり、その先生の下でCD制作へと話はとんとん拍子に進んだ。代表やベレーザのチームメートとともに制作するはずだったが、「先生に歌詞を書いてきてね、と言われ、その言葉を真に受けて、歌詞を書いてきたのが私だけだったんです(笑)」。結果的にCDは小野寺さんの名前で発売され、他のメンバーがバックコーラスを務めることに。だが、一連の流れを経て、小野寺さんは見切りをつけるのも早かった。「とても、そんな(歌手として上を目指せる)レベルではないな、と思いました」。
他にも、「夢先生」の活動がきっかけで、教師になろうと考えて教材を取り寄せたこともあるという。
「好きであること」と「センス(才能)」が合わさり、20年間情熱を燃やし続けることができたサッカーの後に、夢中になれるものを見つけることの難しさは、小野寺さんもわかっていただろう。それでも新たな道を前向きに探し、「やってみたい」と思い立ったらすぐにチャレンジした。その行動力が、新たなキャリアへの道を開いていく。
【地元から女子サッカーを盛り上げる】
やがて、小野寺さんは2つの想いに行き着いた。
「現役をやめるときに『サッカーに恩返しがしたい』ということと、『応援してくれる地元に恩返ししたい』という2つの想いがあって、その想いを実現する方法を考える中で、大和市役所にいきついたんです」
引退から2年後の2010年6月に最初の採用試験を受けた。結果は不採用だったが、これで闘争心に火がつき、同年9月の試験では晴れて採用され、11年4月に入庁することとなった。
「1年目は税金を扱う収納課という部署に配属されました。プロだった時期は少ないけれど税金も納めていましたが、ただでさえわからないことが多くて…。それが逆の立場になってみると、さらに大変でした。先輩たちからいろいろ教わっても、最初はキョトンとするぐらいでしたから(笑)。でも、そこから少しずつ知識を身につけていきました。地方自治体がどんな風に形成されているのか、ということもわかるようになりました」
市役所は産業や福祉、インフラ、教育、地域振興など、市民生活の基盤を支え、地域の活性化を図る。小野寺さんは翌12年にスポーツ課へと異動。「地域スポーツ・女子サッカー支援担当」になり、現役時代に培ってきた経験や人脈が活かせるようになった。同年から、大和市では様々な女子サッカーのイベントを開催している。
一方、14年3月には、それまで中学生年代が中心だったシルフィードがなでしこリーグ参入を目指してトップチームを立ち上げ、GKが不足していたこともあって小野寺さんは3シーズン現役に復帰。3年間でチームは3部に当たるチャレンジリーグの上位を争うまでになり、18年に2部に昇格した。2度目の引退後、シルフィードのコーチをする上では、現役時代に取得しておいたC級ライセンスとGK-C級ライセンスが生きた。現在は朝から夕方まで市役所に勤め、夜はチーム練習、土日は練習や試合をこなす多忙な毎日を過ごしている。
「練習のために定時に上がるのですが、最初の頃は、『この状況で、自分が早く上がったらダメでしょ…』と思うこともありました。でも、今では『頑張ってきてね』と言ってもらい、『行ってまいります!』と(笑)。応援してもらえる幸せな環境に感謝しています。シルフィードが勝つことでステージを上げていけば、さらにお客さんが入って、それが大和市の元気につながっていく好循環に繋げたいですね」
女子サッカー支援の業務は今年で10年目になる。代表がW杯で優勝した2011年に、大野、川澄、上尾野辺の3名を迎えた凱旋パレードは3万人以上の市民が詰め掛けるほど盛り上がったが、代表が勝てない時も変わらず続けてきた。小野寺さんの脳裏に浮かぶのは、県内の少女たちの受け皿として1998年にシルフィードの創設に携わった人など、手弁当でクラブを支えてきてくれた人たちの存在だ。
「そういう方たちがいてくれたからこそ今のシルフィードがありますし、どんな時も地域が女子サッカー支援をやり続けることの大切さを感じます。今の仕事は、『サッカーに恩返しがしたい』、『応援してくれる地元に恩返ししたい』という自分の当初の目的と合致していますが、今後はスポーツと社会課題の解決を結びつけていくことを目指していて、どのような形が良いのかを考え続けているんです」
【「自分で自分の心に火をつけてほしい」】
今後、シルフィードがWEリーグに参入できた際には、プロの指導者になるという選択肢もあるだろう。だが、小野寺さんにその考えはないという。地域貢献という観点で市役所にいながらできることの大きさを感じており、今後は今の立場から、「サッカーに対する貢献の幅を広げたい」と考えているからだ。
だが、シルフィードでの指導に話が及ぶと、その口調は再び熱を帯びた。小野寺さんが指導者として現場で大切にしているのはどのようなことなのか。
「サッカーはプレーする選手が一番楽しいんですよ。一生懸命やって勝てた時も、ダメだった時でも、みんながその喜怒哀楽の感情をしっかり出し切れた時に、『サッカーっていいな!』と思います。勝てない時や試合に出られない時、選手たちはいろんな言い訳を見つけてきますが、結局自分でモチベーションを高められないとダメなんです。そこで何が足りないかを考えて、自分で心を燃やせるようになってほしい。伝えるこちらが熱く声かけをしても、その選手が自分で自分の心に火をつけられなかったら失敗だと思うんです。それを選手に対して伝えるのが、なかなか難しいんですけれど」
1990年代に比べて社会は変容し、選手たちが育った環境も変化した。GPSデータなどを使ったトレーニングの効率化が進み、ITやSNSの普及で情報の獲得が容易になり、プレーの技術的な水準は確実に向上してきた。一方、少子高齢化が進む中で、厳しい競争に晒されたり、切磋琢磨する機会は減っている。そうした中で、「自分の心に火をつける」ことができる選手が少なくなっている、と小野寺さんは感じている。
現役だった頃は、自分も仲間も、監督やコーチに言われなくても、心に火をつけ、燃やすことができた。試合は「勝って当然」。試合内容には一喜一憂し、負ければ地獄に落ちる気分だった。だから今、勝っても負けても表情が変わらない選手を見ると、「やっていて楽しいのかな?」と心配になる。そして、シルフィードの選手たちには、「もっと勝負にこだわれ」と伝えている。
「去年はGKが4人いたので、毎日、じゃんけんを本気でやりました。勝った選手同士が組んで、負け同士が組む。それだけのことなのですが、『相手が何を出してくるか、今日の天気とか、空気とかも読んでね』と伝えます。そうすると、勝った時に『よっしゃー!』と大喜びするんですよ(笑)。その調子で、すべてにおいて勝ち負けを意識しよう、そして勝つために何をすればよいか考えよう、と言い続けています」
小野寺さん自身も、シルフィードでのプレーや指導を通じて学んだことがある。全員が勝利というただ一つの目標に向かっていたベレーザは負け知らずだった。だが、シルフィードのトップチームを立ち上げ、神奈川県1部リーグからスタートした際、負けることも少なくなかった。そして、チームが一段ずつ階段を登っていく過程で、小野寺さんは勝敗だけでなく、何が大事なのかを見つめ直したという。そして、一つの答えに辿り着いた。
「チームの一体感がない中で勝っても、面白くないんですよ。それなら、負けてもチームが一つになって戦えている方がよほど楽しいな、と」
全員がフォアザチームに徹することができ、そこに勝利へのさらに強いこだわりが加わった時、チームは上のステージに行けるのかもしれない。
シルフィードは昨季、2部で7位だった。残留争いに巻き込まれた一昨年から内容は大きく改善され、勝ち点は前年から倍増。一時は2位まで浮上するなど、上位争いに加わる時期もあった。
今季のなでしこリーグのシーズン開幕は3月27日。小野寺さんはGKコーチとして優勝を目指すチームを支えながら、WEリーグ入りを行政の立場からサポートする。それだけではない。日本女子サッカー界がプロリーグ新設という重大な一歩を踏み出すこれからは、小野寺さんをはじめ、女子サッカー界の歴史を肌で知るOGの存在がとても重要になる。選手、指導者、クラブ経営者、クラブフロント、解説者ーー様々な立場から、WEリーグを盛り上げるためのアイデアや軌道修正のアドバイスなどを積極的に発信してほしいと思う。
「どんな状況になっても、女子サッカーのために何かできることを探していくつもりです」
表情は穏やかだったが、言葉には強い意志が込められていた。
(※)インタビューは、オンライン会議ツール「Zoom」で行いました。
小野寺志保さんインタビューに続く