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お正月読み物シリーズ「知っておいて損はない著名判例:日本の裁判史上で初めての違憲判決」-弁護士が紹介

福永活也福永法律事務所 代表弁護士
(ペイレスイメージズ/アフロ)

あまりにも可哀想な女性がやむなく父親を殺してしまい、実刑が科されそうになりました。

*実刑とは、執行猶予が付かずに、実際に刑務所に入らなければいけない懲役刑等が科されることをいいます。

そこで、最高裁判所が悩んだ末、日本の裁判史上で初めての違憲判決を出し、まさに正義の判決を導いた事例をご紹介します。

*違憲判決とは、法律が憲法に反しているため無効とすることをいいます。

事案の概要

被告人は、昭和14年1月31日生まれの女性で、特に問題ない幼少期を過ごしましたが、昭和28年3月頃、14歳になったばかりの頃に、なんと実の父が寝室に忍び込んできて、無理に姦淫されるという事件が起きました。

そして、その後も、被告人は母に打ち明けることもできずに、父に度々姦淫されてきましたが、1年が経った頃、ようやく母に事実を打ち明けました。

当然、母は父を止めようとしてくれましたが、父は、逆上して刃物を持ち出して「殺してやる」と母を脅迫したり、母が被告人を連れて逃げると、何とか執拗に被告人らを探し出して連れ戻したりして、結局、父の暴行は収まりませんでした。

その後、2年が経過した昭和30年頃になって、父側の祖父や周囲の親族にもこのことが知られたものの、父は意に介せずに蛮行を止めようとしませんでした。

この間も、被告人は、知人等を頼って何度か逃げ出そうとしましたが、やはり父に居場所を突き止められてしまい、結局、解放されることはありませんでした。

そして、ついに、昭和30年11月24日、被告人(当時16歳)は父の子を出産するに至ってしまいます。

すると、被告人は、子を育てるためにも、父から逃れることを諦め、ただひたすら父に従うとともに、父に姦淫されている事実をはばかって近隣親族との交際を避け、また、親族も近づかないようになりました。

その後、被告人は、昭和34年3月22日、昭和35年11月7日、昭和37年7月9日、昭和39年2月2日に次々と父の子を妊娠出産しました(他にも6人も人工妊娠中絶をしています)。さらに、被告人は、これ以上妊娠をすると危険であるとして、不妊手術を受けています。

他方、被告人(当時25歳)は、昭和39年8月頃からは、近所の印刷所に通勤するようになっていましたが、職場では、上司や同僚からも慕われ、同僚達と休憩時間などに何気なく交わす恋愛話等を雑談しているうちに、改めて忌まわしい父子相姦の生活を余儀なくされている暗い自己の境遇に気付くとともに、自己の青春を奪われた苦痛を自覚し、諦めていた結婚や世間並みの家庭を持ちたいという願望を抱くようになりました。

そして、被告人が印刷所に勤務し出して2年が経過した昭和42年4月頃、当時、28歳の被告人にとっては年下である21歳男性が同印刷所に就職し、同じ職場で働くことになったことをきっかけに、二人はお互いの誠実さに惹かれ、昭和43年8月下旬頃には、二人は恋愛関係にあるようになりました。

被告人と父の関係を知らない彼は、被告人に対してプロポーズをし、父に承諾を取りたいと話すようになりました。

そこで、被告人は、彼からの愛情を頼りに、父との一方的な関係を断ち切るためにも、父に彼との関係を打ち明けて了解を得ることにしました。

そして、被告人は、昭和43年9月25日夜8時過ぎに、ついに父に彼と結婚したいことを告げたところ、父は、「若い男ができたというので、出て行くのなら、出て行け!お前らが幸せになれないようにしてやる。一生苦しめてやる!」、「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!!」と激高し、その後は被告人を軟禁状態にして、職場への出勤はおろか外出さえも許さないようになり、連日、被告人を脅迫しては今まで以上に性交を強要するようになりました。

このような状態のまま10日を過ごした被告人は、昭和43年10月5日午後9時半過ぎ、父から、「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ、17才のとき上京して苦労した。そんな苦労をして育てたのに、お前は十何年間も、俺をもてあそんできて、このばいた女!」、「男と出て行くのなら出て行け、どこまでも呪ってやる!」「ばいた女、出て行くなら出てけ、どこまでも追ってゆくからな、俺は頭にきているんだ、子供位は始末してやるから、おめえはどこまでも呪い殺してやる!!」といわれのない暴言を吐かれ、さらに襲われそうになりました。

そしてついに、被告人は、父の支配下にあり、父の獣欲の犠牲となり続けている現状から脱出して自由を得るためには、もはや父を殺害するしかないと思い、父の上半身を仰向けに倒した上、枕元にあった父のズボンの紐を右手に掴み、父の頭の下に回してその頸部にひと回りするように紐を巻き付けた上、その両端を左右の手に別々に持って、父の頸部付近で左右に交差させ、紐の両端を持った両手を強く引き絞って父の首を絞めつけ、その場で窒息死させてしまいました。

なお、犯行時、被告人は心神耗弱の状態(しんしんこうじゃくと読んで、睡眠不足と心労のため心身ともに疲労の限界に達し、善悪を判断し、それに基づいて行動する能力がきわめて低下した状態)にありました。

論点

この事案では、あまりに可哀想な被告人に対し、刑務所に入れてしまうのは相当ではないと思われます。

そして、刑法では、被告人を実刑ではなく、執行猶予(すぐには刑務所に入らずに、定められた一定期間中にさらに問題を起こした場合にのみ刑務所に入る条件)を付した刑にするためには、法定刑が3年以下でないといけないと定められています。

しかしながら、当時、刑法では、普通の殺人罪の場合は、法定刑が死刑、無期懲役、3年以上の有期懲役と定められていましたが(これは現在も同じ)、さらに、尊属(父母や祖父母のように、親族関係において上の世代の血族のことをいいます)を殺害してしまった場合には、尊属殺人罪という特別な規定があり、法定刑が死刑と無期懲役しかありませんでした。

そして、法定刑について、被告人が心神耗弱の状態であった場合や、特に情状酌量すべき事情がある場合には、減軽できることとなっており、本件では、被告人は、該当するものの、尊属殺人罪が適用されると、元の法定刑である無期懲役を2回減軽しても、法定刑は、3年6月以上の有期懲役となり、執行猶予付きの判決を出すことができません。

そのため、これだけ可哀想な被告人に対して、実刑を科して刑務所に入れなければならないのではないか、被告人に対して、どのような判決を下すかが注目されました。

判決

判決では、尊属殺人罪の規定が、憲法第14条第1項に違反し、違憲で無効であるとされました。

まず、憲法第14条第1は、国民に対し法の下の平等を保障した規定であって、事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものでない限り、差別的な取扱いをすることを禁止しています。

参照「憲法第14条第1項:すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

そして、尊属殺人罪の規定は、直系尊属を殺した者については重く処罰するというもので、普通の殺人罪と比べると差別的な取扱いといえます。

問題は、このような差別的取り扱いが合理的な根拠に基づくかどうかです。

まず、尊属殺人罪の規定の趣旨については、尊属を殺害することは一般により重い社会的道義的な非難を浴びるもので、これを特に気夏するために重く処罰するということ自体は、社会生活上の基本的な倫理観に合致しており、合理的な根拠を欠くものとはいえないと述べられました。

しかし、まさに本件のように、尊属殺人罪は、2回減軽しても執行猶予付きの判決をすることができず、いかに酌量すべき情状があっても実刑にしなければいけないことからすると(減軽は2回までしかできない)、尊属殺人を重く処罰すること自体は許されるものの、その加重の仕方が重すぎて不合理な差別的取扱いとなっていると述べられました。

そして、結論としては、尊属殺人罪の規定は、違憲で無効であり、普通の殺人罪で処罰すべきであり、法定刑を減軽した上で、懲役2年6月、執行猶予3年の刑を科すべきとしました(昭和48年4月4日最高裁判決)。

評価

もはや親とは呼べないような被害者に対して、形式的に尊属殺人罪を適用して、被告人を実刑に処することは相当ではなかった事案で、裁判所は、日本裁判史上、初めての違憲判決に踏み切ってくれました。

かなり思い切った判断だったかと思いますが、約5年にわたって正義を信じて弁論活動をしていた弁護人、それを頼りに戦い抜いた被告人、正義に応えた最高裁判所の方々に敬慕いたします。

多くの法曹志望者が、この判決を読んで、法曹を志すきっかけの一つとされたことと思います。

※本記事は分かりやすさを優先しているため、法律的な厳密さを欠いている部分があります。また、法律家により多少の意見の相違はあり得ます。

福永法律事務所 代表弁護士

著書【日本一稼ぐ弁護士の仕事術】Amazon書籍総合ランキング1位獲得。1980年生まれ。工業大学卒業後、バックパッカー等をしながら2年間をフリーターとして過ごした後、父の死をきっかけに勉強に目覚め、弁護士となる。現在自宅を持たず、ホテル暮らしで生活をしている。プライベートでは海外登山に挑戦しており、2018年5月には弁護士2人目となるエベレスト登頂も果たしている。MENSA会員

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