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カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」

田中淳夫森林ジャーナリスト
カルピスに賭ける三島海雲を応援した土倉龍次郎

7月7日は七夕だけでなく、カルピスの日、なんだそうである。

カルピスはカルピス株式会社が製造する乳酸菌飲料であることは知ってのとおり。長く「初恋の味」のキャッチフレーズで有名だった(今も使っているのか?)。

その最初の発売日が、1919年7月7日だった。だから7月7日はカルピスの日なのだ。ちなみにデザインの水玉模様も天の川を表わしているとかいないとか。

カルピスを発明したのは、三島海雲。だから「カルピスの父」と言えば三島なのである。彼の人生は波瀾万丈で面白い。ちゃんとした評伝があれば読んでみたいものだが、ここでは彼の陰で事業を支えた、もう一人の「カルピスの父」がいたという話に触れたい。

三島は、もともと寺に生れて仏教を学んでいたが、宗教者には向いていないと悟ったのか、1902年に中国大陸に渡って事業を企てた。

そして北京で出会い意気投合したのが、土倉五郎である。そしてその兄の土倉四郎。二人は、吉野の山林王と言われた土倉庄三郎の4男と5男だった。庄三郎は明治時代をリードした林業家で、その財で多くの政治家を支援するほか各地に植林を広めたり学校に援助などしたが、子息の多くは外国を夢見ていた。

三島は、この二人と内モンゴルで馬を買い集めて日本陸軍に売りつける商売を行っていた。元手は土倉家が出したようだ。

だが、辛亥革命で一文なしとなり、帰国した三島の思いついた次の事業が、内モンゴルで味わった乳製品、今で言えばヨーグルトだった。それを真似て商品化したものの、量産に失敗して挫折。

そこで頼ったのは、土倉家の次男・龍次郎だった。彼は台湾で1万ヘクタールの山を租借して林業を行うほか、樟脳生産や水力発電計画など多くの事業に取り組んできたが、すべてを売り払って帰国後はカーネーション栽培に打ち込んでいた。だから「カーネーションの父」と呼ばれる人物だ。

龍次郎は、三島がラクトー株式会社を設立するのを応援し、自らも監査役に入っている。(社長には、資金を出した龍次郎の元部下・津下紋太郎が就任。)

まず乳酸菌入りキャラメルなども出したが上手くいかなかった。そこで次に取り組んだのが脱脂乳からつくった飲料だった。この新たな乳酸菌飲料を龍次郎は試飲して太鼓判を押した。そこで大々的に生産し、宣伝を繰り広げて売り出したのである。これが今に続くカルピスだ。

つまり、土倉家の面々、とくに龍次郎がいなかったら、カルピスは世に出なかったかもしれないのだ。

ところで龍次郎の長男・冨士雄は、1970年からカルピス株式会社(ラクトー株式会社の後身)の社長に就任している。彼は業績を大きく伸ばした一方で、文化活動にも熱心だった。たとえば当時スポンサードを務めていたテレビアニメ「フランダースの犬」の脚本をチェックして演出や音楽まで指示を出していたことで有名である。

ほかにも三島と関わり、事業を応援した土倉家の人々は何人もいる。三島自身が「土倉家は私の恩人である」と幾度となく語っている。

ちなみに今年7月19日は、土倉庄三郎の没後100年に当たる。今宵の七夕は、そんなカルピス誕生秘話を肴にビールでも飲むか。……だって、手元にカルピスがないから(笑)。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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