私の聞いた戦争体験【#815いまわたしが思うこと】75回目の終戦記念日に:空襲の中で起きたこと
■「両手足のないおじさんが、殺してくれと、うめいていた」
空襲で両手足をなくし胴体だけになったおじさんが、苦しそうに「殺してくれ」と、うめいていました。
昭和9年生まれの母から聞いた話です。母は東京で生まれ育ちましたが、福井に疎開して、そこでB29による福井大空襲に遭遇します。
幼かった母は、自分の母親に連れられて焼夷弾が降り注ぐ中、逃げまわります。両手に二人の子の手をしっかり握り、背中に赤ん坊を背負って。誰も助けてくれる人がいない中、四人の親子は、火の海になった街を走ります。
動かない人、叫んでいる人、殺してくれとうめく人。でも、幼かった母は、不思議と怖くはなかったそうです。怖がっている余裕はなかったのだと思います。
三人の子供を守る私の祖母にも、助けを求める人々の声は聞こえていました。でも、立ち止まることはできません。止まれば、みんな死にます。
助けを求める声を振り捨て、「ごめんなさい。ごめんなさい」と言いながら、祖母はただ必死に走りました。
この話を、母はことあるごとに、話してくれました。戦争から何十年たっても、話すたびに涙を流しながら。
戦後、荒廃した日本で、母の兄が父親がわりになって家族を支えてくれたと言います。母は洋裁教師の資格を得、復興と高度成長の時代を力強く生きてきました。
祖母は戦後、戦争で亡くなった夫の位牌に手を合わせるときには、いつもあの時に助けられなかった人々のことも祈っていたといいます。その時の悲しく、辛く、怖くて悔しい思いは、その後の楽しい思い出の中にあっても、消えることはありませんでした。
■福井大空襲
大きな空襲といえば、東京大空襲をはじめ、大阪、名古屋、神戸など大都市の空襲が有名ですが、小規模地方都市も空襲の被害を受けています。各都道府県で、それぞれの町の被害が語り継がれているでしょう。
母が体験した福井大空襲は、終戦まであと一月もない1945年(昭和20年)7月19日の午後11時24分から翌日午前0時45分にかけて行われました。
127機の戦略爆撃機B29によ集中爆撃でした。福井の町を守る戦闘機も、高射砲も、ほとんどありませんでした。B29は、低い高度で町の上空に来て、悠々と9000発の焼夷弾を雨のように降らせて行きました。
空を覆うB29の大軍の姿を覚えていると、母は言っていました。
1発の焼夷弾は、空中で何十にも分散し、家々の上に、人々の上に降り注ぎます。全てを焼き尽くすために開発されたのが、焼夷弾です。
空襲は、軍事基地を狙ったものではなく、軍需工場だけを狙ったものでもなく、町全体に「絨毯(じゅうたん)爆撃」として行われました。
福井市街地の損壊率は84.8%。優れた兵器と練度の高い兵士たちによる素晴らしい戦果と、アメリカ軍からはそう評価されるでしょう。
しかし絨毯爆撃は、たとえ戦時であっても許されない、無差別大量殺戮です。広島や長崎には、原爆のとても立派な資料館があって、世界に核爆弾の恐ろしさを発信し続けています。私は、各地の絨毯爆撃の被害を示す資料館と情報発信が、もっとあっても良いと感じています。
■社会の記憶としての「戦争」
私が強くそう思うのは、母から空襲の話を聞き、また東京都墨田区で生まれ育った人間として、身近な人からも東京大空襲の話を聞いてきたからだと思います(墨田区も空襲で焼け野原になりました)。
それは、アメリカによる戦争犯罪だとか、日本が戦争を長引かせたといった問題とはまた別の、庶民による生の声の力です。
映画もアニメもドキュメンタリーも、大切で素晴らしいものです。でも肉親や身近な人から聞く話は、確かなリアリティーがあります。
大きな体験をしているからといって、みんなが語り部になれるわけではありません。大勢の聴衆の前で話すのには、テクニックもいるでしょう。でも、上手なスピーチではなくても、家族の前なら話せるかもしれません。
ただ、家族の前だからこそ、戦争の時の話はしたくないと感じる人もいると思います。「そういえば、両親、祖父母、曽祖父母から、戦争の話をほとんど聞いたことがない」という人もいるでしょう。
辛い体験をしすぎた人ほど、話ができないこともあります。でも、もうあまり時間はないかもしれません。各世代間で、話すことが癒しになり、聞くことが学びになりますように。
個人の記憶はいずれ風化し、証言者の数が減っていても、社会全体で戦争の記憶を語り継げますように。
終戦から75年。今年も、8月15日がやってきました。
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