【先取り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の妻で北条義時の姉・北条政子は、卓越した政治手腕の持ち主だった
2022年に放映される大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、すでに配役が発表され、話題を呼んでいる。なかでも北条政子は、草創期の鎌倉幕府を支えた女性である。いったいどういう人物だったのだろうか。
過去の大河ドラマで北条政子は、岩下志麻さん(「草燃える」1979年)、財前直見さん(「義経」2005年)、杏さん(「平清盛」2012年)が演じた。今回の「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが演じる。
■北条政子と頼朝の結婚
北条政子が時政の娘として誕生したのは、保元2年(1157)。前年には、武士が台頭するきっかけとなった保元の乱が勃発し、後白河天皇、源義朝、平清盛の陣営が崇徳天皇の陣営に打ち勝った。
治承元年(1177)、政子は伊豆に流人として流されていた源頼朝と結ばれた。父の時政が京都に大番役で、不在のときの出来事だったといわれている。時政は平氏の威勢を恐れ、2人の結婚に反対したが、半ば駆け落ち同然での結婚だったといわれている。
治承4年(1180)、頼朝は打倒平氏の兵を挙げるが、石橋山の戦いで敗北。雌伏の期間を経て、頼朝は鎌倉へと入った。長男・頼家が誕生したのは、寿永2年(1182)のことである。
同年、娘の大姫は、対立していた源(木曽)義仲の長男・義高と結婚した。しかし、元暦元年(1184)、頼朝は義仲を滅亡に追い込んだ。頼朝は義高を討つよう堀親家に命じ、親家の郎党・藤内光澄が義高を斬った。これにショックを受けた大姫は、病になった。
激怒した政子は頼朝に対し、光澄を討つよう強く迫った。頼朝は政子の意向を無視できず、光澄を討伐した。政子の強い影響力をうかがい知る出来事でもある。
■頼朝死後の政子
その後、頼朝は平氏を滅亡に追い込み、征夷大将軍になると、鎌倉幕府を作り上げた。しかし、建久10年(1199)1月、頼朝は不幸にも落馬して、そのままこの世を去った。跡を継いだのが頼家である。
頼朝の死後、幕府を支えたのが政子だった。政子は出家して、尼御台と呼ばれるようになる。13人の御家人に対して、頼家を補佐するよう命じたのは政子だった。むろん、自らも頼家を補佐し、幕府の安泰に努めたのである。
しかし、頼家は失政が目立ち、人の上に立つ器ではないのが明らかだった。建仁3年(1203)、頼家の外戚だった比企能員を討伐すると、政子は愛する我が子の頼家に出家を命じ、伊豆の修善寺(静岡県伊豆市)に幽閉した。
代わりに擁立したのが、頼家の弟・実朝である。翌年、頼家はこの世を去った。政子は鎌倉幕府を守るため、非常な決断を下したのである。
■承久の乱と政子
承久3年(1221)、後鳥羽上皇と幕府との関係が悪化し、承久の乱が勃発した。朝廷は北条義時追討の宣旨を下し、各地に討伐の兵を募った。朝廷の権威に対して、幕府の御家人たちは恐れおののき、大いに動揺した。その際、動揺を鎮めたのが政子だった。
政子は御家人たちを前にして、故頼朝の厚恩を説き、宣旨は逆臣の讒言であるとした。そして、朝廷を討つべく兵を挙げることを宣言し、朝廷に与する者は直ちに申し出よと演説した(『承久記』)。これにより御家人は安堵し、戦いの結果、朝廷を降参に追い込んだのである。
■政子の最期
元仁元年(1224)に義時がこの世を去ると、政子の主導によって、六波羅にあった泰時(義時の子)を3代執権に据えた。こうして北条氏の執権体制は、揺るぎないものになった。
政子が病を得て亡くなったのは、翌嘉禄元年(1225)7月11日のことである。墓は、神奈川県鎌倉市の寿福寺にある。
このように政子は、鎌倉時代のみならず日本の政治史上、傑出した政治手腕を持つ女性だった。今から、小池栄子さんがいかに演じるのか、非常に楽しみである。