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これはイジメか!城の上から小便を掛けられ、仕返しをした竹中半兵衛重治

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岐阜城(稲葉山城)と月。(写真:イメージマート)

 今も残念ながら、イジメ問題が跡を絶たない。イジメは学校だけではなく、職場でもある。かつて、竹中半兵衛は城の上から小便を掛けられ、激怒して仕返しをしたので、その顛末を紹介することにしよう。

 竹中半兵衛重治は、天文12年(1544)に重元の子として生まれた。重元は美濃斎藤氏の家臣で、大御堂城(岐阜県大野町)を本拠とした。重治が初陣を飾ったのは、弘治2年(1556)のことである。

 以後、斎藤氏は大御堂城から菩提山城(岐阜県垂井町)に本拠を移し、やがて重治が父に代わって家督を継いだ。当初、重治は斎藤義龍に仕えていたが、その死後は子の龍興に従った。

 重治が14・5歳の頃、「西美濃三人衆」の1人の安藤守就の娘を妻として迎えた。しかし、主君の龍興は酒食に溺れて政務を放擲し、重治ら家臣を遠ざける一方で、一部のお気に入りを登用したという。

 そこで、重治が起こしたのが稲葉山城(岐阜城)の乗っ取り事件である。きっかけは永禄7年(1564)1月、重治が稲葉山城に登城した帰り、斎藤飛騨守の配下の者に城壁から小便を掛けられたことにあるという。

 このとき重治は屈辱を晴らすことを堅く誓い、稲葉山城を襲撃しようと決意した。同年2月6日、重治は舅の守就とともに稲葉山城を襲撃し、斎藤飛騨守を斬り、すぐに稲葉山城を占拠した。

 その際、龍興が城から脱出したので、西美濃一帯は大混乱になった。重治らが稲葉山城を占拠したのは事実であり、諸勢力を糾合して器量のない龍興を追放してクーデターを実行したのである。

 同年6月以降、重治は越前の朝倉氏と結ぶため、徳山氏や国枝氏に書状を送り交渉役を依頼した。同時に美濃国一帯に軍事行動を展開した。重治による稲葉山城の占拠は、同年8月頃まで継続したという。

 信長が重治に美濃半国と稲葉山城の交換を要求した際、重治は「龍興に反省を促したのであって、一時的に城を預かったまで」と返答した。重治は城を龍興に返還すると、そのまま隠棲したという(『甫庵太閤記』)。

 近年の研究によると、実際には守就が主導してクーデターを実行したといわれている。いったん守就は稲葉山城を奪ったものの、龍興らが抵抗したので苦戦した。その結果、守就らは稲葉山城を放棄したのである。

 いずれにしても、重治が城内で小便を掛けられたとか、「龍興に反省を促すため」というのは、単なる創作であり、史実と認められない。実際は守就が主導してクーデターを起こしたが、ほかの諸将の賛同が得られず、失敗したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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