相続で押すと危ない二つの書類~その2 「『1人独占』の遺産分割協議書」
相続で遺産分けの際に、うっかり押印してしまうととんでもないことが起きる書類が2つあります。一つは先月ご紹介した、「相続分なきことの証明書」です。 そしてもうひとつは今回ご紹介する「『1人独占』の遺産分割協議書」です。
相続放棄をする理由
まず、本題に入る前に相続放棄はどのような場合に行われるか考えてみます。
被相続人が債務超過に陥っている場合が典型ですが、現実には、もっと別の理由から相続放棄が行われることも多いようです。たとえば、共同相続人の中の1人に相続財産を集中させるために、他の相続人が放棄することはよく見られます。
具体的には、被相続人(亡くなった方)の介護等をした方の労に報いる、今後の生活で資金が必要な人に遺産を集中させる、農業経営で土地の細分化を防ぐ等の目的などで使われます。
相続放棄の方法
相続放棄をする相続人は、自己のために相続が開始したことを知ったときから3か月以内に、被相続人の最後の住所地の家庭裁判所にその旨を申述しなければなりません(民法938条)。
938条(相続の放棄の方式)
相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。
申述には、家庭裁判所の「相続放棄の申述書」に必要事項を記入し、 被相続人の住民票除票又は戸籍附票、 申述人(放棄する者)の戸籍謄本、その他審理のために必要な場合は,追加書類を提出しなければなりません。
家庭裁判所の審理を経て申述書が受理されれば、相続放棄が成立します。そして、その相続に関しては初めから相続人にならなかったものとして扱われます(民法939条)。
939条(相続の放棄の効力)
相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。
したがって、借金等の「マイナスの財産」はもちろんのこと、預貯金等の「プラスの財産」も含めて一切の相続財産を取得しません。
なお、相続放棄はいつでもできるわけではありません。「自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月以内」という期間があります。この期間を「熟慮期間」といいます。熟慮期間について詳しくは、「『相続放棄』認められないことがある~親の借金を背負わないための知識」をご覧ください)。
915条(相続の承認又は放棄をすべき期間)
1.相続人は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内に、相続について、単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。ただし、この期間は、利害関係人又は検察官の請求によって、家庭裁判所において伸長することができる。
2.相続人は、相続の承認又は放棄をする前に、相続財産の調査をすることができる。
事実上の相続放棄~「『1人独占』の遺産分割協議書」
このように、相続放棄は家庭裁判所に対して申述を行わなければならないため面倒な手続きをしなければなりませんし、一定の日数を要します(相続放棄の手続きについては裁判所ホームページをご参照ください)。
もっとも、特定の相続人に相続財産を集中させることだけが目的なら、家庭裁判所への申述を要する相続放棄を用いなくても、他に手段がないわけではありません。
実は、相続放棄をしなくても1人の相続人に遺産を集中させる方法が2つあります。一つが先月ご紹介した「相続分なきことの証明書」です、そしてもうひとつが今回ご紹介する「『1人独占』の遺産分割協議書」です。
1人独占の遺産分割協議書
この「『1人独占』の遺産分割協議書」とは、冒頭でご紹介したような理由で、相続人の内の1人に遺産を集中させる場合によく利用されます。
内容は、「被相続人山田太郎の全ての遺産を長男の山田一郎が取得する」といった至って簡単な形式で構いません。いくつかある遺。産を個別に書き出す必要はありません。
「『1人独占』の遺産分割協議書」に署名して実印を押すと、「全ての遺産を取得する」とした相続人(前掲の「山田一郎」)が遺産の全てを取得すことになります。このため、「『1人独占』の遺産分割協議書」は、事実上の相続放棄と呼ばれています。
遺産分割協議書は「プラスの財産」のみ
実は、相続人間の遺産分割協では、被相続人の残した預貯金や不動産等の「プラスの財産」のみの分け方しか決めることしかできません。遺産分割協議の「遺産」には、借金等の「マイナスの財産」は含まれていないのです。
円満相続にしのびよる影
たとえば、被相続人の山田太郎さんの介護を同居していた長男の山田一郎さん夫婦が献身的に行ったとします。他の相続人は太郎さんの妻の花子さんと二男の二郎さんの以上3人です。花子さんは今後一郎さん夫妻と引き続き同居します。幸い二郎さんは安定した仕事に就いていています。
そこで、遺産分けの話し合いの際に、二郎さんは「兄さん夫婦がお父さんの介護をしてくれたし、今後お母さんの面倒も看てくれるのだから、俺は遺産はいらないよ」と言い、花子さんも「今後、一郎夫婦に面倒を看てもらうのだから一郎が父さんの遺産を全部引き継いでくれてもいいよ」と言ってくれたとします。
そして、前掲の、「被相続人山田太郎の全ての遺産を長男の山田一郎が取得する」という「『1人独占』の遺産分割協議書」に3人それぞれ署名して実印で押印しました。そして、不動産の名義は太郎さんになり、預貯金も太郎さんの口座に振り込まれました。
めでたしめでたしです。
ただし、「めでたしめでたし」は、被相続人に「マイナスの財産」がないことが前提なのです。
「マイナスの相続財産」の引継ぎは相続人の間で決められない
しかし、実は太郎さんには、借金が1000万円ありました。
ふつう、全ての遺産を引き継いだ者が被相続人の債務を支払うのが当然と考えるでしょう。しかし、債務者にはお金を貸した「債権者」がいます。債務を承継する者は、「債権者の承諾」が必要なのです。
ですから、全ての遺産を取得した者が債権者に対して「私が遺産を全て引き継いだので借金は私が支払います」と言っても債権者が「NO」と言えば、場合によっては遺産を引き継がなかった他の相続人が、たとえば法定相続分の割合で被相続人の「マイナスの相続財産」を背負ってしまうこともあり得るのです。
「『1人独占』の遺産分割協議書」に署名・押印する前に注意すること
「『1人独占』の遺産分割協議書」に署名・押印するときの注意事項は次の3つです。
1.「マイナスの相続財産」がないこと
大前提として被相続人に借金等の「マイナスの相続財産」がないことです。
2.「マイナスの相続財産」があれば事前に債権者と話し合いを持つこと
もし、「マイナスの相続財産」があれば、遺産を独占する相続人が「マイナスの相続財産」を引き継ぐことに対して債権者の合意を得てから署名・押印しましょう。
3.相続放棄を検討すること
「遺産を独占する相続人以外の相続人」が相続放棄をしてしまえば、相続人は「遺産を独占する相続人」のみになります。当然、「マイナスの相続財産」も「遺産を独占する相続人」が全て引き継ぐことになります。
ただし、先ほどご紹介したとおり、相続放棄をするには家庭裁判所へ相続放棄の申述をしなければなりません。また、熟慮期間内でなければなりません。
まとめ
「『1人独占』の遺産分割協議書」は、相続人間に争いがない「円満相続」によく用いられます。
しかし、相続人間で決められるのは「プラスの遺産」の分け方のみです。「マイナスの相続財産」を引き継ぐ相続人は債権者の合意がなければ決めることができません。
したがって、熟慮期間内であれば、相続放棄を利用して相続人の1人に遺産を集中させるのが安全策と言えるでしょう。
円満な親族の関係を、遺産分割協議がきっかけで壊さないように遺産分割協議は慎重に行いましょう。