どうして藤原道長は『望月の歌』を詠んだのか?道長の心情と歌の新解釈とは?
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
この歌は藤原道長の三女が後一条天皇の立后祝いでの饗宴の席で歌われた有名な歌です。姉・太皇太后の彰子、皇太后・妍子(けんし)と共に一家に三后が立つ前例のない出来事で、自身の栄華を誇ったものと言われています。
この世は自分のためにあるようなものだ、望月の欠けたことがないように
現代語訳にするとおおよそこのような意味で、この時3人の娘を天皇の后にすることに成功した道長が得意満面に歌ったとこれまで解釈がなされていました。
おごりすぎだと感じることもあれば、それすら許される道長のすごさを感じ取れます。一方で満月に例えたことはこれから欠けていく不安な心情も感じ取れます。
そこで、今回は藤原道長の『望月の歌』について新解釈も含めて紹介します。
『望月の歌』の新解釈
京都先端科学大学教授の山本淳子さんによる解釈によると、「この世をば 我が世とぞ思ふ」は「今夜は本当にいい夜だなあ」と解釈し、【月=皇后】で望月は三后を占めた娘たちを指しています。また、歌を詠んだ日が満月の夜ではなく、月が少し欠けている次の日に詠まれたことが分かっています。
そのことを踏まえて現代語訳をすると…
今夜は心ゆくまで楽しい、空の月は欠けているが、私の月(后となった娘達)は欠けていないのだから
上記のような意味になるのかと思います。
道長しか心情は分かりませんが、こちらのほうがごう慢さが抜け、少しホッとした心情が見え隠れしているように感じます。
藤原道長の出世は順調だったが…
結果だけを見ると、藤原道長は順風満帆な人生を送ったと思いますが、『望月の歌』を詠むまでにはたくさんの修羅場をくぐり抜けています。
摂政・藤原兼家の三男(五男)として生まれた道長は、兄の存在があったので出世の見込みがなく、貴族の頂点に立つはずではありませんでした。それが兄達の死をキッカケに多くの政敵を排除し、巧みに権力を手にしてきました。
しかし、多くの恨みを買い復讐に脅え、特に自分を恨んでいるであろう兄たちの怨霊に悩まされる日々だったそうです。
また、病にも悩まされており彰子入内前の33歳ころに大病を患い、出家を天皇に申し出るほどの病状だったそうです。その後の威子入内の前年にも病魔に侵されていたことが分かっています。
藤原道長の『望月の歌』を詠む心情
仕事面では順調だった道長でしたが、プライベートでは病に侵され、満身創痍の状況だったと言えます。
従来の解釈だと『この世は自分のモノの様だ、満月のように欠けることのないように』ですが、「道長の体調面を考えると単純に言い切れないのでは?」と思ってしまいます。
だれでも病気になると気弱になるのは自然なことです。
道長の体調面も考慮すると「全ては私のものだ」と言うより、「息子・頼通の代まではこの栄華が続く道筋ができた」とホッとしたのが心情かもしれません。
もちろん個人的な憶測でしかありませんが、そんな心情を想像するのも歴史を学ぶ醍醐味ではないかなと思います。
参考文献:
『常識を覆す日本史とんでもミステリー』(2024)ダイアプレス
山本淳子(2023)『道長ものがたり「我が世の望月」とは何だったのか』 朝日新聞出版