【戦国こぼれ話】蒲生氏郷は石田三成に毒を盛られて毒殺されたのか!? その真相を探る!
■毒殺の噂
現代でも急に資産家が亡くなると、「毒を盛られたのではないか」という噂がまことしやかに流れることがある。戦国時代においても、毒殺されたという逸話は事欠かない。
豊臣秀吉に重用された蒲生氏郷には、石田三成に毒殺されたとの逸話がある。その真相を探ってみよう。
■蒲生氏郷とは
蒲生氏は近江日野音羽城(滋賀県日野町)主で、氏郷の父・賢秀はもともと佐々木氏に仕えていた。佐々木氏が衰退すると織田信長に仕え、氏郷は信長の人質として送られた。
信長が天正10年(1582)6月の本能寺の変で横死すると、氏郷は羽柴(豊臣)秀吉に仕え、2年後には伊勢松ヶ島(三重県松阪市)に12万石を与えられた。
文禄2年(1593)、氏郷は近江の一国人から、会津(福島県会津若松市)を中心に91万石を領する大大名に出世した。しかし、その死をめぐっては、毒殺されたという物騒な説がある。
■朝鮮に出兵した氏郷
文禄元年(1592)にはじまった朝鮮出兵では、氏郷も出兵した。しかし、慣れない土地のことでもある。陣中で病に陥った氏郷は、翌年11月に会津に戻った。
帰国後も氏郷の病状は悪化する一途であり、それは周囲から見ても明らかだったようである。氏郷は京都に滞在中、医師の曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)の治療を受けるなどした。
医師の診察を指示したのは、ほかならない秀吉である。施薬院全宗(やくいんぜんそう)を主治医として、先述した曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎(いちおうけんそうこ)ら9名の医師が輪番で治療を行った。
■氏郷の死
文禄4年(1595)2月7日、氏郷は京都伏見の自邸において病没した。まだ、40歳という若さであった。蒲生家の家督は、子の秀行に譲られた。
ところで、氏郷の死因に関しては、当時の医師・曲直瀬玄朔が書き残した『医学天正記』によって、すでに明らかになっている。
氏郷は朝鮮出陣前の名護屋城(佐賀県唐津市)で発症しており、診断の結果からして、現在でいうところの直腸癌、肝臓癌あるいは肝硬変などの症状があったとされている。
このように比較的信頼のおける史料に病状が記されており、その死因もある程度推測できるのであるが、なぜ毒殺説が流布したのであろうか。
■氏郷の毒殺をめぐって
毒殺説が記されているのは、『氏郷記』、『石田軍記』、『蒲生盛衰記』なる書物である。いずれも、後世に成った二次史料ばかりである。
それらの書物によると、文禄4年(1595)に石田三成が豊臣秀吉と謀って、氏郷に毒を盛ったというのである。しかし、当時、三成は朝鮮にいたので、氏郷に毒を盛れるわけでなく、現在では否定されている。
そもそも氏郷の治療を命じたのは、先に触れたとおり秀吉であるから、毒を持ったというのは矛盾する。また、文禄4年(1595)の段階で、氏郷の病状はかなり悪化していたのだから、毒を盛らなくても死ぬのは時間の問題だった。
■ありえない毒殺
端的に結論を言えば、氏郷が毒殺されたとは考えられない。それは、単なる創作にすぎないだろう。
氏郷毒殺説が広まった理由は、徳川家の世になって以降、三成を悪者に仕立て上げる風潮が成しえたのではないかと考えられている。
このように暗殺、毒殺といった話は、信頼度の落ちる二次史料におもしろおかしく書かれていることが多いので、注意が必要である。