「きゃりーぱみゅぱみゅ」が世界を席巻 アソビシステム代表中川悠介氏の「できないことはない」思考
ポップカルチャーの聖地・原宿に拠点を構え、「きゃりーぱみゅぱみゅ」や「新しい学校のリーダーズ」を輩出した芸能プロダクションのアソビシステム 代表取締役の中川悠介氏。
大学在学中の2007年に同社を設立した中川氏は、新規参入が難しいとされる業界の「後発」にもかかわらず、なぜ「きゃりーぱみゅぱみゅ」で世界を席巻することができたのか。今回は、現在もインバウンドを魅了する「HARAJUKU CULTURE」の可能性に早くから気づき、世界への発信を牽引してきた中川氏の軌跡を辿る。
「原宿のアイコンをつくりたい」
徳力 まずはアソビシステムをつくったきっかけを教えてください。
中川 僕はもともと、人を集めるのが好きだったのです。
Hi-STANDARDが主催した「AIR JAM」などのイベントを観てきた世代で、高校時代は自分でもバンドを組み、ライブハウスでイベントを開催していました。
大学時代は100人規模のテニスサークルの会長をしながら、それとは別に月10回ほど、クラブイベントをしたり、学生ファッションショーイベントを全国展開させたりしていました。
高校の頃からよく原宿に出入りしていたので、原宿ファッションや音楽のカルチャーが根付いていました。
当時はファッション誌で読者モデルの人気が出始めていた頃でしたが、後に「青文字系」とも呼ばれる原宿の読者モデルたちはまだ世の中には認められない状況で、応援したいと考えていました。そういう動機で大学在学中の2007年にアソビシステムをつくり、4年ほどはイベント運営をメインに行なっていました。
イベントなどで出会った才能あるアーティストたちのために、プロダクション業務をやりたいとは考えていましたが、そう簡単にできるものではなく、ちょっとずつですね。外からは「事務所ごっこ」のように見えていたと思います。
徳力 なるほど。中川さんは今でこそ業界では有名な方なので、どこかの大手芸能事務所で勉強してから独立されたものと勝手に思い込んでいましたが、純粋にイベントや原宿カルチャーが「好き」なところから起業されたんですね。
そのような中、「きゃりーぱみゅぱみゅ」さんに出会い、プロデュースすることになった。2011年にワーナーミュージック・ジャパンからCDデビュー、メジャーデビューしたのが2012年。貴社では実質的に、初のメジャーデビューだったそうですね。なぜ可能になったのですか。
中川 コネもツテもない状態で社会人経験もなかったので、何も分からず、ひたすら人に相談していました。
きゃりーのデビューは、(Perfumeの音楽プロデューサーとしても知られる)中田ヤスタカと出会い、応援してもらえたり、知り合いづてにワーナーミュージック社を紹介してもらえたりしたことが重なって実現しました。これは特殊なケースだと思います。
特にワーナーさんには、しょっちゅう教えを乞いに行って、助けていただきました。
今考えても正直、なぜうまくいったのかよく分かりません。
ただ確かだったのが「原宿が好き」ということ、「原宿のアイコンをつくりたい」という思いがあったこと。きゃりーが登場する前までは、原宿は日本人よりもむしろ、外国の人たちに評価されていて、「日本のカルチャーの象徴だ」と言ってくれる人もいました。きゃりーは原宿系の読者モデルから始まり、音楽活動で注目されるより前の2010年からアメーバブログで変顔や独特のワードでバズり、後には総合ランキング1位を獲得するなど、人気が爆発する予兆は見えていました。
「面白おかしい子」というイメージが先行していましたが、アイドルの素質もあることから「原宿のアイコン」の路線でプロデュースすることにしたのです。
「できないことはない」
徳力 中川さんの中では学生時代からずっと「原宿文化を応援したい」という思いが一貫されていたんですね。
それで、きゃりーさんはYouTubeを起点にメジャーデビューしたわけですが、当時はまだYouTubeにMVを上げる日本人アーティストはほとんどいなかった中で、新人としては異例の「フル尺」でアップされたのはなぜですか。CDの売上が下がる可能性もある試みですが。
中川 メジャーデビューの楽曲「PONPONPON」(2012年)は、グラフィックデザイナーの田向潤さんに協力をお願いするなど、限られた予算の大半をMVに集中させました。
こだわり抜いて完成したMVを見て「このクリエイティビティは絶対に世界から評価される」と確信し、当初から世界展開を意識してYouTubeに公開しました。CDの売上のことなどは、あまり理解していなかったかも知れません。YouTubeなら世界で見られるし、これはもうフル尺で上げちゃっていいんじゃないか、という感じで。
「世間がやっていないことをやろう」というよりは、「意味あることをしたい」という思いでした。
徳力 「素晴らしいものができたからみんなに見てほしい」ということだったのですね。その結果、海外で動画が拡散され、ケイティ・ペリーら海外セレブが話題にしたことで記録的な再生回数になりました。
ピコ太郎の「PPAP」がジャスティン・ビーバーに見出されたことでブレイクした例もありますが、恐らくそういった事例は、いきなり有名アーティストに届いたわけでなく、小さなバズの波が積み重なっていったのでしょうね。
中川 そうですね。ケイティ・ペリーが話題にしてくれた当時、「誰にいくら払ったのか」などと聞かれましたが(笑)、本当にラッキーパンチでした。
ただ、担当してくれたワーナーミュージックのチームがすごく良いチームで、いろいろな方面に拡散してくれたことで海外のインフルエンサーにも届いたのだと思います。良いクリエイティブをつくれば、お金とは関係なく支持してもらえると実感した出来事でしたね。
徳力 ビジネスをしていると、つい損しないようにビジネススキームを組み立ててしまいがちですが、クリエイティビティに全集中したことがヒットにつながったのですね。
しかもその後すぐ、初めての海外ツアーをされています。勝算も何もなかったと聞きましたが本当ですか。
中川 それまで日本では、人気が定着してから海外ツアーに出るのが主流でしたが、きゃりーは2012年末に初めて紅白歌合戦に出て、次の瞬間にワールドツアーに打って出ました。
チケットが確実に売れる見込みはありませんでしたが、僕はそれ以前にフランスの「Japan Expo」できゃりーの人気を目の当たりにしていたので、やってみる価値はあると思いました。
それに、日本人は結構、海外で流行しているものを好みます。ここはどんどん攻めて、海外のファンとも接点をつくることが「きゃりーぱみゅぱみゅ」というアーティストを長く生かし、日本での価値も上げることになると考えました。
でも多分、当時の彼女からしたら「え?」だったと思います。
徳力 きゃりーさんでも「え?」ですか。
中川 やっぱり、日本でもまだメジャーデビューして間もないのに、海外の舞台に一人で立つなんて、不安じゃないですか。
でも、彼女の凄さはそこを頑張りきる力を持っていることと、スタッフを信じてくれたことだと思います。ただ、当時20代後半だった僕も、事務所のスタッフも、誰もワールドツアーの経験など無かったので、最初はめちゃくちゃでした。
オランダに着いた途端にスタッフがカメラを置き引きされたり、ホールに入った瞬間にヒューズが飛んだり、アクシデントが続発。予算も無かったので、同行のスタッフやダンサーも最小限にしていたので、僕も着ぐるみを担いで持って行ったりしていましたね。
徳力 きゃりーさんはその後、世界を股にかけた「原宿kawaii」ムーブメントの先導者になりましたが、その背後では中川さんたちが徒手空拳で海外市場を切り開いていたんですね。
中川さんはデジタル時代のエンターテインメントの課題解決に向けて、経済産業省のワーキングから発展した「デジタルエンタテインメントコンソーシアム」の発起人としてもご活躍されていて、「成功した人」というイメージを抱いていたので、驚きです。
若くして、どうしてそこまで成長できたんでしょうか。
中川 僕は「できないことはない」と思っているのです。大学生の頃に聞いた「ノミの理論」というものがあります。ノミは大きな跳躍力を持っているのに、「天井」を設けてしまうと本来の力を発揮できず、それ以上飛べなくなってしまうという。
ゴールを決めたらそこまでにしかならない。だからゴールを決めずに、常にブラッシュアップしていこうと、ずっと意識してきました。
仕事とプライベートを切り分けるということもしてきませんでした。経営者としてはもちろん、分けないといけないと思いますが、自分の中では仕事になる以前に、カルチャーを応援することがライフスタイルになってしまっていたので。
徳力 中川さんの中では、好きなアーティストや文化がもっと評価されるべきだという思いが先にあって、一貫して応援し続けてきたわけですね。
もはや趣味の延長とか仕事とかではなく、人生そのものだと。
中川 でも僕自身は、何もできないんですよ。歌えないし、踊れないし、デザインもできない。本当にアーティストたちのサポートの立場なんです。だからこそ僕は、マネージャーも単なる付き人ではなく、プロデューサーだと思っています。
アーティスト本人が持つクリエイティビティを引き出すのが、事務所でありプロデューサーの仕事ですが、彼らを押し出す下準備と、タイミングの選び方はとても重要です。良いプロデュースのためには、スタッフはアーティストと対等でいる必要があると思っていて、社員にもそのような姿勢を求めています。
徳力 アソビシステムには、そういった“中川イズム”が浸透している。だからアーティストを伸ばすために「天井」を設けず、日本の常識に捉われないアプローチを考えることができるのでしょう。
中川 成功体験が一番の邪魔になると思っているので。
徳力 成功体験が一番の邪魔になる。その通りですね。
とても大事な視点だと思います。ありがとうございました。
※この記事は、徳力基彦とアジェンダノートの共同企画として実施されたインタビュー記事を転載したものです。