【戦国こぼれ話】ルイス・フロイスもびっくり。大出世した豊臣秀吉の老獪な抜け目のない手口
今の世の中では、出世するには抜け目のなさが非常に重要である。お人好しでは生きてはいけない。豊臣秀吉は抜け目のなさではピカ一だったが、ルイス・フロイスはどう評価したのだろうか。
■本能寺の変以後の羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀吉は織田信長に仕えていたが、運が開けたのは信長の横死後だった。天正10年(1582)6月、信長は明智光秀に急襲されて自害に追い込まれたのだ。
その直後、備中高松城で交戦中の秀吉は、直ちに上洛すると、山崎の戦いで光秀を打ち破った。光秀が殺されると、清須会議で三法師(のちの織田秀信)を擁立し、ポスト信長の主導権を握った。
天正11年(1583)以降、秀吉は対立する柴田勝家・織田信孝を自害に追い込み、続く翌年の小牧・長久手の戦いで、織田信雄と徳川家康を屈服させ、臣従させることに成功した。
それらはあっという間の鮮やかなものだったが、もっとも当時の人々が驚いたのは、天正13年(1585)に関白になったことだろう。五摂家以外で関白になったのは、秀吉が初である。
その後も秀吉の勢いは止まらず、四国征伐で土佐の長宗我部氏を配下に収め、九州征伐で薩摩の島津氏を屈服させた。天正18年(1590)には小田原北条氏を滅亡に追い込み、その後の奥州仕置を終えて、天下統一を果たしたのである。
それらは、秀吉の老獪な手口によるものであり、武力以前に練りに練られた巧妙なものだった。有力な諸将でさえも、秀吉の前では無念の涙を呑んだのである。
■ルイス・フロイスの評価
一連の秀吉の老獪な手口を目の当たりにしたイエズス会の宣教師のルイス・フロイスは、その著『日本史』の中で秀吉について手厳しい評価を下している。
秀吉の人間性に関しては、「彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた」あるいは「(秀吉)には、高貴さと武勲において己(秀吉)に優る二人(柴田勝家・織田信孝)の競争相手がおり」と、秀吉の出自や品格を問題視する発言を行っている。
また、フロイスは秀吉を「抜け目なく狡猾であったので、己が才能を誇示し貴人や民衆の希望を満たすために、二つのことを実現して彼らを掌握しようと決意した」と記している。その二つのことは、次のものである。
①主君である信長の葬儀を盛大に挙行することにより、主導権を握ろうと考えた。
②幼い三法師(のちの織田秀信)を擁立し、自らが後見人になることにより、主導権を握ろうと考えた。
①は信長の葬儀に積極的に関わることによって、秀吉自らが事実上の後継者であることを天下に知らしめた。同時に②の三法師を抱え込むことにより、傀儡として活用したのである。
秀吉は柴田勝家ら反対勢力を一掃すると、京都周辺の領国を一族に与え、ますます威勢を拡大したのである。こうした一連の用意周到な勢力拡大策は、反対勢力の気勢を殺ぐのに十分な効果を発揮した。
■手厳しい秀吉への評価
こうして秀吉は、着実に自らの基盤を固めたのであるが、フロイス『日本史』ではその姿を次のように表現している。
こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。
秀吉がこうした計算高さを身につけたのは、貧しい出自を持つがゆえであろう。秀吉はどうすれば天下を取れるのか、絶えず考え抜いたに違いない。貧しい時代に身につけた処世術は、それなりの出自を持つ諸大名にはないものだった。
フロイスは秀吉を「気品に欠け」「抜け目なく狡猾で」と表現するが、現代にも少なからずこうした人物がいるはずである。それは、秀吉が幼い頃の貧しさから抜け出すために、自然に身につけた能力だったのだ。