名物コラム「風雲永田町」の政治評論家・鈴木棟一氏を悼む
夕刊フジで「風雲永田町」という1000字のコラムを書き続けて来られた鈴木棟一氏が急逝された。中国問題に関しては必ず私を取材して下さり、国会議員にも影響を与えてきた。巨星が落ち、その激しい喪失感に打ちのめされている。
◆心の支えだった鈴木棟一氏
鈴木棟一氏は私の心の支えだった。
いつも私が書いたコラムを見ては「はい!鈴木棟一!――」という勇ましい掛け声で電話を掛けてきて、「さて、今日はですねぇ・・・」と、気に入ったコラムに関して取材をし、その場で一気に1000文字にまとめる。
その文章のみごとなこと。
私が4000文字近い文章で書いたものを、1000文字なのに、要点を押さえてまとめているので、かえって分かりやすい。みごとな起承転結は、「美しい作品」と言っても過言ではない。
その「美しさ、みごとさ」に圧倒されて感動の電話をすると、「嬉しいねぇ!そう言われると、また書きたくなるよ。元気をもらえるよなぁ」と喜んでくれるので、結局私たちは2日に一回くらいは互いに電話をし合っていた。
時には「ところで、○○に関しては、どう思われますか?まだコラムで書いておられないでしょ?」などと聞かれることもあり、「大急ぎで書きます」と返事してから、1日以内に書き上げるものだから、大喜びしてくれる。
中国の時事問題に関して、常に全方向でアンテナを張り、日夜途絶えることなく書き続けることができたのは、このサイクルがあったお陰だ。
夕刊フジの名物コラム「風雲永田町」は国会議員が読んでおり、鈴木棟一氏や安倍元総理に近い友人から「安倍さんがね、中国問題に関しては『風雲永田町』に載っている遠藤誉の分析がとても参考になるって言ってるよ」などと嬉しい話を聞かされたりするものだから、なお一層コラムを書くことに全力を尽くしてきた。
一個人の思考、分析が鈴木棟一氏を通して国会議員や総理にまで届き、いくらかでも日本の政治に反映される可能性があるというサイクルが、私に勇気を与え、80歳を超えてもなお、1分1秒を惜しんで、全ての魂を注いだ分析と執筆を可能にしてくれた。
鈴木棟一氏は月に一回、「永田町最新レポート」という冊子をまとめて、国会議員を含めた政財界のメンバーによって構成されている「永田町社稷会」会員に郵送していた。レポートはあらゆる時事問題を対象としてテーマが絞られているのに、ここ2,3年は、必ず筆者の名前が出てくるというほど、中国問題を扱ってくれて、私の生き甲斐の一つになっていた。
ついこの間も、「8月8日から12日までは夏休みを取りますから」という知らせがあったばかりなのだが、以下に示す8月6日の夕刊フジ「風雲永田町」が、私に関する記事としては最後になってしまった。
◆「人間を描く」分析を気に入ってくれていた
鈴木棟一氏は私が「人間像に斬り込んでいること」を非常に気に入ってくれていた。「人間を描くことによって時代を斬る」という言葉を使って、「だからですね、私は遠藤先生の中国分析以外は面白くないんですよ」と仰ってくださっていた。
先般復刊した「チャーズ」の本『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』に関しても、私が7月11日に書いたコラム<作家・佐藤愛子さんからの返事 戦後の長春での惨劇「チャーズ」について>、「これがまた面白い!佐藤愛子の話がいい!」と絶賛してくれて、以下のような「風雲永田町」コラムを書いて下さった。
赤線の囲み部分が佐藤愛子さんに関して書いておられる部分で、「この人間関係がいいですねぇー!実に面白いなぁ・・・」と、ご自分が「風雲永田町」を書き始めるに至った「偶発的な人間関係の物語」を縷々(るる)お話しになられた。
鈴木棟一氏は私より一つ上の82歳。
二人にとって「年齢」という概念はなく、いつも「書き続けているということが生きていることなんだから」と、年齢無視の姿勢で、互いに励まし合い、執筆にいそしんでいた。
ただ、最近ではコロナ感染を警戒して、家から一歩も出ないようにしている私を批判したことがある。某大企業の社長が遠藤と会いたがっている、一緒に食事でもどうかと言われた時に、私がコロナを警戒して断った時のことだ。
「遠藤先生はですね、実に緻密で深い中国分析をするので、非の打ちどころがないんだが、どうも、一点だけ気に入らないなぁ・・・」
「えっ、何ですか?」
「そのう、何というか、用心深さというか、私なんかマスクなし、ワクチン打たず、満員電車だって平気という毎日を過ごしているのに、ちょっと遠藤先生は体に関して用心深すぎるんじゃないかな…、その点だけが気に入らない」
そう仰っていたのに、いなくなるなんて、約束違反ではないですか。
私はこのあと、何を執筆動機にして生きていけばいいというのだろう・・・。
底なしの喪失感に打ちのめされた。
◆98歳の佐藤愛子さんは、新たに連載を始めたという
そこで、例によって作家の佐藤愛子さんに電話した。
「先生、お元気ですか?」
「いやあ、もうあなた、元気も何も、ここのところ起き上がれないんですわ」
「えっ、それは悪いことをしました。そんなときにお電話なんかして」
「いえ、いいんですよ。電話を取るのに立ち上がるくらいはできますから。それにね、なんだか、また連載を始めてしまいましてね・・・」
「えっ、この間、今度こそは本当に断筆って仰っていたけど、98歳になってもなお、新たな連載って・・・」
「いえ、実はね、婦人公論さんの方で、月に一回でいいからって言うものだから、昭和のころの自分の生い立ちとか、物心ついたときの話とか、気軽に書いているだけなんですけどね」
「うわぁ、すごい!98になっても、連載を始めるなんて、何という・・・!」
「いえ、私のはただ思い出話を書くだけだから。あなたは事実を確認して論理構成をしなければならないから、そりゃあ、大変ですわね」
「そうなんです。わずか2、3行の事実でも、それを突き止めるのに夜を徹して調べたり、一つのテーマで起承転結を決めたりなどしないといけないので、命がけですよね、毎回」
「そうでしょうねぇ、あなたの場合は、私より大変よね」
「いえ、佐藤先生の何気ない文章にこそ、実は深い味わいがあって、裏では格闘しておられるだろうなぁと思いますが、それを見せないところが文章の匠味(たくみ)さですよね」
「あら、良いこと言ってくれるじゃない?そこなのよ、実は。裏での格闘が出てしまうとダメなのよ、私のような物書きには。でも今回は幼少期の思い出だから、まあ、楽ですよ、いくらか。私、実は、ヨチヨチ歩きをしていた頃からのことも覚えていてね」
「まあ、そうなんですか。私は3歳ころからの記憶が残っていますが・・・」
「3歳ね・・・、あるでしょうね。私はヨチヨチ歩きだから・・・。ま、人間、目的を持っていないと、生きてないのに等しいのよ。私たちは書いてないとダメなのよね・・・。あなたなんか、まだ81?若い若い!私の年齢になるまでには、まだ17年間もあるのよ。ともかく書くこと!体はね、歳取りますよ、そりゃ。そんなの、まあ、歳なんだからって、そっぽ向いてればいいのよ。人間、影法師みたいなものだから、所詮・・・」
なんという、奥深い言葉だろう。
言葉の一つ一つが胸に納得いく形で響く。
鈴木棟一さん、私はあなたとの約束を守りますよ。
生きている間は書く、書いている間は生きている――。
見守っていてくださいね・・・。
私はあなたとともに生きていきます。
(このコラムは中国問題グローバル研究所のウェブサイトからの転載である。)