【九州三国志】麦島城、消えた城の物語!その石垣に刻まれた時代の記憶
かつて肥後の地にそびえ立っていた麦島城は、小西行長の命を受けて1588年に築かれました。
南蛮貿易の拠点として、また豊臣秀吉の直轄港である徳淵津を抱えた城は、単なる防衛施設を超えた機能を果たしていました。
時は移り関ヶ原の戦い、加藤清正の軍が迫る中、城代の末郷は住民を守るため城を開き、薩摩へと退却します。
以降、麦島城は加藤氏の支城として改修が進み、その規模は本丸東西約130m、さらに二ノ丸を含めれば400mに及びました。
その後、大坂夏の陣を経た1615年、元和の一国一城令においても特例として八代城(麦島城)と熊本城の二城体制が許されました。
しかし1619年の大地震により麦島城は倒壊。
新たに松江の地で八代城が築かれ、麦島城は歴史の舞台から消えることとなります。
それでも、一国二城体制が認められていなければ、現在の八代城跡は存在しなかったのです。
平成の発掘調査により、小西行長時代の本丸石垣や金箔瓦を載せた小天守が姿を現しました。
「隆慶二年 仲秋造」銘の滴水瓦は、朝鮮半島から持ち帰られたもので、文禄の役を経て日本列島にもたらされたことが証明されています。
さらには倒壊した平櫓が、竹小舞に礫や瓦片を詰めた防弾仕様の壁と共に出土。
この発見は、考古学史上の貴重な例となりました。
現在、麦島城跡は市街地化が進み、その面影を辿ることは難しいものの、丹念に地形を観察すればかつての城の輪郭が浮かび上がります。
整備された天守台跡や、古城館での展示物が、麦島城の記憶を未来へと繋いでいます。
天正から元和へ、そして平成へ──麦島城の物語はなおも続いているのです。