Yahoo!ニュース

【九州三国志】耳川の敗北、大友氏の苦悩!九州覇権争い、島津との激闘

華盛頓Webライター
credit:pixabay

天正6年(1578年)、大友家当主・義統と隠居の宗麟は伊東義祐の要請を受け、南九州へと大軍を率いて進軍しました。

しかし耳川の戦いで島津軍に大敗を喫し、多くの将兵を失って撤退を余儀なくされたのです。

この敗北を契機に肥前の龍造寺隆信が離反、筑前の秋月種実らも反旗を翻すなど、大友家は領内で反乱が続発し、かつての6カ国に及ぶ勢力圏は崩壊の危機に瀕しました。

一方、島津家は耳川の勝利を足掛かりに勢力を拡大し、大友家への圧迫を強めていきます。

窮地に追い込まれた義統は織田信長との接近を図り、天正8年(1580年)、信長の仲介により「豊薩和睦之儀」を成立させました。

しかし天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると和睦は瓦解。

沖田畷の戦いで隆信が戦死し、九州の三者鼎立時代も終焉を迎えます。

以後、大友氏と島津氏による二者並立の激しい覇権争いが繰り広げられました。

大友氏は立花道雪・高橋紹運らを頼み、島津勢に抵抗を続けたものの、天正13年(1585年)、道雪の陣没により戦力が大きく削がれます。

宗麟は豊臣秀吉に援軍を求めたものの、当時の秀吉は徳川家康との交戦中で手を貸すことができず、和睦による解決を目指すのみでした。

しかし、近衛氏の猶子となっていた秀吉の仲介にもかかわらず、島津義久は和睦を断固拒否。

大友家はなお苦境に立たされることとなったのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

華盛頓の最近の記事