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【九州三国志】抗争の火花、その血塗られた舞台は肥後の地にて

華盛頓Webライター
credit:pixabay

かつて肥後北部を巡る抗争は、隈部氏と城氏、赤星氏の間で激烈を極めました。

赤星親家が合勢川の戦いに敗れると、隈部親永は龍造寺隆信と手を結び、対抗の構えを強めました。

その後、耳川の戦いで大友氏が大敗すると、隈部氏は龍造寺勢と共に赤星氏の拠点を次々と攻略。

1580年には長坂城を落とし、さらに隈府城の支配権を得ることで、菊池・山鹿・山本の三郡に及ぶ領地を築き上げました。

しかし、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死すると情勢は急変。

隈部氏も島津氏に降伏し、勢力は後退しました。

そして1587年、豊臣秀吉の九州征伐により隈部親永は所領を大幅に削減され、さらに佐々成政による検地への反発から隈府城での籠城戦を展開。

だが一揆勢の結束も虚しく、最終的に秀吉の大軍勢に屈し、城村城を放棄せざるを得ませんでした。

その後、親永は筑後国柳川城で果たし合いによる非業の死を遂げました。

肥後の地に広がった抗争の火花は、やがて血と涙に濡れる結末を迎えたのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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