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【光る君へ】紫式部が「源氏物語」を書いた理由。物語のモデルとなった「悲劇」とは?

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長とのラブストーリー。ついに、お互いの正体を知ったまひろと三郎

ただの身分違いではない。まひろにとって三郎は憎き母の仇(かたき)の弟なのだ。(とはいえ、紫式部の母が道兼に殺されたのは、完全なフィクション。母は若くして亡くなったとされるが、死因は不明である)

ドラマでは、紫式部と道長は恋に落ち、ソウルメイトとして強く結びついていく。しかし、史実では、紫式部と道長の関係性ははっきりとはわかっていないのだ。

紫式部はどのような理由で「源氏物語」を書き上げたのか?今回はそのについて考察してみたい。

「源氏物語」は紫式部の妄想?それとも現実?

諸説はあるが、「源氏物語」はある程度現実に起きたことをもとにした物語だとされている。

桐壺帝は醍醐天皇がモデルとするのが定説。桐壺更衣のモデルには、楊貴妃や光孝天皇の生母・藤原沢子、花山天皇の女御・藤原忯子など多くの説がある。

前回の記事(関連記事:「【光る君へ】紫式部と道長、同じ藤原氏なのに身分に差があるのはなぜ?(家系図)」 2024年1月28日)において、身分に差ができるのは「後ろ盾がなくなるからだ」と書いた。

光源氏(以下源氏)の父は桐壺帝、母は桐壺更衣。桐壺更衣は公卿である大納言家の正妻の娘なので、そこまで身分の低い出自ではないが、すでに父は亡く「後ろ盾」がなかったので、更衣の地位に甘んじたとされる。

光源氏が臣籍降下させられたのも、実家の「後ろ盾」がないことが一番大きな理由だった。しかし源氏はのちに冷泉帝(表向きは弟だが、実は源氏の子)より准太上天皇の待遇を受け、栄華を極める。

これも実際に起きたことがモデルだと考えられている。三条天皇の子・敦明親王が、道長の圧力に屈して皇太子の地位を返上し、その見返りに准太上天皇を賜ったことである。

正妻ではなかった紫式部の悲しみ

最愛の人を幸福にできなかった光源氏

「源氏物語」の数多の登場人物の中でも、「後ろ盾」がないことで最も人生を翻弄されるのは、源氏最愛の妻・紫の上だろう。紫の上の父は親王(兵部卿宮)で、母は大納言の娘だが正妻ではなく、若くして亡くなっている。

父宮に忘れられた紫の上は、育ててくれた祖母が亡くなったのを機に源氏に略奪されるように屋敷に連れてこられ、そのまま妻にされてしまう。現代であれば結構な事件である。

紫の上は源氏の正妻格として不遇の時代にも光源氏を支えるが、源氏は准太上天皇となったのちに、兄朱雀帝の内親王・女三宮を正妻として迎えてしまう。

ここで紫の上は改めて、自分の不安定な境遇に気づくのだ。「後ろ盾」も子もない自分の立場は、ただ源氏の「愛」のみに支えられたものであったと。

紫の上に自分自身を投影?

ここには紫式部自身の悲しみも投影されているのではないだろうか。紫式部は藤原宣孝と結婚したが、彼女は正妻ではない。当時は正妻と所帯を持ち、それ以外の女性とは基本的には通い婚であった。

結婚したものの、夫はたまにしか顔を見せず、亡くなったことすら人づてに連絡があっただけかもしれない。最後に会ったのはいつだっただろう?この先、娘と自分はどうやって生きればよいのか?

財力も手に職もない紫式部は、どれほど途方に暮れたことだろう、と想像する。しっかりとした実家のない自分の境遇の悲しみを、「源氏物語」を書くことでなぐさめようとしたのかもしれない。

紫式部が「源氏物語」に「託したかった想い」とは?

源氏物語の舞台は村上朝

先述のように光源氏の父・桐壺帝は醍醐天皇(在位:897-930)がモデルだとされるが、物語の冒頭、桐壺帝の御代はその二時代後の「村上天皇の時代」(946-967)だというのが定説だ。執筆時期の50年ほど前である。

もっとも源氏物語には「しかけ」があり、物語終盤には当時存命していた実在の人物が登場する。そこで読者は「これは実際の物語、しかも現実だったのか」と愕然とする趣向なのだという。

たとえば今のわたしたちが、「昭和初期の物語」だと思って読んでいたら、いきなり大谷翔平が登場して「ビックリ」するような感じかもしれない。

「源氏物語」作者の異説

余談だが、「源氏物語」の作者は紫式部とされてはいるが、少数派ながら異説も存在する。その根拠の一つが、「源氏物語」は「源氏」が常に「藤原氏」に勝利する物語であり、藤原氏の一員である紫式部が書いたのは不自然だというのである。

しかしそうだろうか?受領階級(下級貴族)として生まれ、父の昇進で辛酸をなめた(※)紫式部は、果たして「藤原氏隆盛」を「我がこと」として受け止められただろうか?むしろ、「藤原氏の世」を憂い儚んでいたのが紫式部の本心ではなかっただろうか。(※父為時は花山天皇の退位後、約10年もの不遇の時代が続く)

桐壺更衣の悲劇のモデルは中宮定子?

定子と彰子、紫式部の心中は?

「源氏物語」の序盤の桐壺更衣のモデルは、紫式部の仕えた彰子のライバル・定子という説もある。確かに、父・道隆という「後ろ盾」を失い、若くして亡くなった悲劇の女性である定子。

ここで基本的なことをおさらいしておくと、紫式部が仕えたのは中宮彰子道長の娘で彼女が産んだ子が次々天皇となったために、道長は栄華を極めることができた。彰子のライバルが、皇后定子。道長の兄・道隆(井浦新・演)の娘で一条天皇に深く愛されるが、24歳で亡くなってしまう。

桐壺帝と桐壺更衣の悲恋物語は、一条天皇と定子の物語に重ね合わせて書かれたことは十分に考えられる。

「源氏物語」で桐壺更衣をいじめるのは弘徽殿女御だが、現実社会で定子に嫌がらせをしたのはほかならぬ道長である。たとえば、定子が出産のために実家に戻る日に公卿が同行できないように、宇治の別荘に大勢を招いて妨害、という子どもじみたことをしているのだ。

明るく知的な皇后定子は、一条天皇最愛の女性。定子と彰子はいとこ同士だが年齢は定子が10歳上。入内したとき彰子はわずか12歳20歳の一条天皇には子どもすぎたのである。

今の時代であれば、大学生(一条天皇)のもとに小学生(彰子)が嫁入りするようなものである。大学の先輩(定子)のほうが話も合うし、小学生を女としてみるなんて無理!というのが一条天皇の本音だっただろう。

そんな一条天皇を自分の娘のもとに来させるために道長が用意した「客寄せパンダ」が、紫式部の「源氏物語」だったのである。「紫式部日記」には1008年に「源氏物語」の冊子を作ったとあるが、これは一条天皇に「読みにいらして」と誘うためだったのだろう。

今でいえば、限定版で超レアなライブ映像を手に入れたから見に来ない?という誘い文句に近いかもしれない。しかし当代一番人気の「源氏物語」の新作は原本一冊しかなく、彰子のもとでしか読めないというのだから、その威力は絶大なものだっただろう。

定子と紫式部の共通点

紫式部はもともと、定子に同情的だったのかもしれない。なぜかといえば、定子と紫式部はやや境遇が似ているのである。

定子と彰子は父が兄弟のいとこ同士だが、母の身分はかなり差がある。

彰子の母は源倫子(黒木華・演)で、天皇の血を引く高貴な身分の女性である。一方、定子の母・高階貴子(板谷由夏・演)の高階氏は、もともと紫式部の家と同じ受領階級(下級貴族)

さらに高階家は紫式部の家同様、学者の家で、貴子も漢文を読みこなす才女だったらしい。その学識は定子にも受け継がれ、一条天皇は定子の影響で漢文を好むようになったともいわれる。

「源氏物語」は仮名文字で書かれているが、漢文の知識を持って読むと、そこかしこに紫式部の深い学識や教養を感じられるのだという。だからこそ一条天皇も当時の男性も「おんな子どもの読むもの」とは一線を画した作品として評価したのだろう。(当時は「源氏物語」のような「ものがたり」は漢文書と比較して、かなり低く見られていた)

賢い紫式部は「男だったら出世できたのに」といわれながら育ち、漢文を読みこなせることを隠しながら生きてきた。知性で天皇を魅了した定子に紫式部が憧れ、自分自身を投影したとしても不思議ではない。

定子が不遇の中で亡くなったころ、紫式部も結婚3年ほどで夫に先立たれるという不幸に見舞われた。「源氏物語」がそのような中で書かれたのだとしたら、桐壺更衣のモデルが定子であることは十分にあり得る

しかし、「源氏物語」は藤原氏隆盛の世への反体制の文学だともいえる。紫式部は「現実の物語」だとわからなくするために、あえて時代背景を村上朝として、母の身分を更衣としたのではないだろうか。

紫式部は彰子をどう見ていたか?

では紫式部は、どのような想いで定子のライバル・彰子に仕えていたのか?紫式部は「紫式部日記」に、「辛い人生」を送ってきた自分の「沈みがちな気分」の慰めにでも、「中宮彰子さまのような方にお仕えすべきだ」と書いている。

定子は悲劇の女性だが、一条天皇には心から愛された。一方の彰子はその逆である。申し分のない後ろ盾はあるが、天皇から愛されたかというと難しい。12歳で入内してようやく懐妊したのは9年後であることからも、夫婦関係がやや疎遠であったことがうかがわれる。

9年もの間、懐妊を周りに期待され続け、子ができれば次は男子を期待される。その重圧はいかばかりのものだったか。さらに当時は子どもを産むこと自体が、現代とは比較にならないほど「命がけ」だったのである。

前后の定子も出産で命を落としている。彰子の最初のお産は難産だったとされ、それでも健気にふるまう彰子の姿に紫式部は感動し、「今さらながらこの方にお仕えしよう」と決意を固めたのだ。

藤原氏の隆盛にも道長のやり方にも一言いいたい想いを持っていたのかもしれない紫式部。それとは別に同じ女性として人として、感銘を受ける人間性を備えていたのが彰子だったのだろう。

紫式部と清少納言を説明するときに、枕詞のように登場する彰子と定子の名だが、これまで彼女たちの人となりはほとんど知られてこなかった。平安を代表する二人の才女に愛された二人の中宮は、やはりそれぞれに魅力的な女性たちだったのである。

(関連記事:「【光る君へ】紫式部と清少納言、どちらが偉い?どちらが幸せだった?」 2024年1月21日)

(文・イラスト / 陽菜ひよ子)

主要参考文献

紫式部日記(紫式部 / 山本淳子・編)(KADOKAWA)

フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)

藤式部の恋人(毛利公子)(あるむ)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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