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【光る君へ】紫式部と道長、同じ藤原氏なのに身分に差があるのはなぜ?(家系図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

年始からはじまった大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部と、平安時代に藤原氏全盛を築いたとされる藤原道長とのラブストーリー。現状、二人はお互いに身分を隠しつつ、惹かれあっている。

ラブストーリーを軸にしながらも、まひろの母が殺されたり三郎の父が天皇毒殺を企てたりと、いきなり血なまぐさい事件が巻き起こるストーリー展開!!

おもしろいのだが、そもそも「なんで藤原氏だらけなの?」「同じ藤原氏なのになんで身分が違うの?」「藤原氏と源氏はどっちが偉いの?」といった疑問が頭に浮かんで入り込めない!という人もいるのではないだろうか。

本日はそのあたりをわかりやすく整理してみたいと思う。

藤原氏の対抗馬・源氏ってどんな人々?

スクールカースト一軍女子に混ざる三軍女子・まひろ

前回(第3回)はまひろ(紫式部)が父に言われて遠縁である源(みなもと)雅信邸に行き、娘である源倫子(りんし/みちこ/ともこ)と出会う。実はこの源倫子はのちに道長の正妻となる女性。今後、倫子は紫式部の人生に大きくかかわってくることになる。

倫子と取り巻きのやんごとない姫君たちとの「お遊び」に参加したまひろ、得意の漢字をつかったゲーム(へんとつくりの2枚で漢字を作る)で、空気を読めずに一人勝ちしてしまう。

ほかの姫君が不機嫌になる中、「まひろさん、すごい」と場の空気をやんわりと変えてしまう「コミュ力の高さ」で話題となった倫子

ちょっと得体のしれない感じを黒木華さんが見事に演じていた。あの例の京都人の「ぶぶ漬け食べていきなはれ」と言われて本当に食べたらあかんやつなのか?それとも本当に無邪気に褒めているだけなのか?

彼女らがお勉強はテキトーでコスメや恋バナに夢中のJKだとしたら、まひろはガリ勉の漢文オタク。ちなみにこの時代、漢文は男性が学ぶもので、仮名に対して真名(まな)、男手とも呼ばれた。

仮名は女手とも呼ばれ、和歌のやり取りは仮名でおこなわれたため、女性は仮名が書ければよいとされたのだ。女が漢文など読めても役には立たない時代。まひろは現代のわれわれが感じる以上に、周りからは「変人」に見えているのである。

なお、彼女らの指南役の赤染衛門はのちに中宮彰子に仕える。つまり紫式部の同僚となる女性である。しかし、このときのまひろにとっては、遠い存在であった。

誰もが狙っていた、究極のお姫様、源倫子

藤原氏について語る前に、源倫子はどのような身分の人なのか。そもそも「源氏」とはどのような人々かをまずはおさらいしてみたい。

当時、天皇には多くの妻がおり、多くの子が生まれたが、天皇の子でも、「親王(内親王)宣下(せんげ)」されなければ親王(内親王)と名乗ることはできなかった。

母の身分が低い場合、親王宣下されず「臣籍降下(姓を与えられて臣下になること)」することも多かった。その際に与えられた本性のひとつが「源氏」である。(「源氏物語」の光源氏も桐壺帝の子だが、母が身分の低い更衣だったため、臣籍降下されて源氏となった)

倫子は左大臣・源雅信の娘で、宇多天皇のひ孫にあたる。左大臣は右大臣より上の役職のため、右大臣である藤原兼家(道長の父・段田安則さん演)に唯一対抗できたのが、倫子の父の雅信だったのだ。

つまり、兼家にとって源雅信は目の上のたんこぶ。倫子が天皇に入内でもすれば、自分の娘の地位、ひいては自分自身の地位を脅かす存在になりうるのだ。

964年生まれの倫子は、年齢的には円融天皇(959年生)とも現東宮(とうぐう:皇太子のこと)である花山天皇(968年生)とも釣り合う。そこで兼家は、源雅信の遠縁(※)である紫式部の父・為時に、倫子の縁談について探りを入れるよう命じたのだった。(※雅信の妻・穆子(ぼくし/あつこ・石野真子・演)と為時がいとこ同士)。

そんな「引く手あまた」な倫子は、遠縁といえど紫式部には雲の上の人。倫子と夫婦となる道長もまた、紫式部には到底釣り合わない相手なのである。

藤原氏だらけの時代、どうやって身分の差は決められた?

天皇ですらその地位が危うかった時代

なぜ、同じ藤原氏なのに、そのような身分差が生まれたのか?この時代、「天皇の子だから」「藤原氏だから」「源氏だから」といった出自のみで身分は決まらなかった。天皇の子でも母の身分が低ければ臣籍降下されたことでもそれはわかる。

天皇でもあぐらをかいてはいられなかった。たとえばドラマにおいて現東宮である花山天皇はヤバい天皇として知られ、その片鱗は登場するなり「変顔」をした子役から本郷奏多さんに受け継がれている。花山天皇の在位期間はたった2年ほどと短いが、それは彼の奇行のせいではない(たぶん)。

単純に右大臣・藤原兼家にとって邪魔だったから、陥れられて退位させられたのである。そんなことが許された理由はただ一つ、花山天皇に「後ろ盾」がなかったから。

花山天皇は先の帝である冷泉天皇の皇子。母の藤原懐子(かいし/ちかこ)は摂政太政大臣の藤原伊尹(これただ/これまさ)の娘で、伊尹は兼家の兄に当たる。

(前回「わたしは三男ですから」という三郎に、兼家は「わたしも三男だ」と返答していた。兼家も兄たちが早世して地位が巡って来たのだ)

花山天皇の不運は、後ろ盾となる親族が次々と亡くなったことだ。祖父の伊尹は972年、母の懐子は975年に死去。母が亡くなった時点で花山天皇はわずか8歳。17歳で即位し、19歳で出家している。

なお、花山天皇には異母弟の三条天皇がおり、三条天皇の母は道兼の娘・超子(ちょうし/とおこ)。超子は若くして亡くなったため、妹・詮子(せんし/あきこ)の子である一条天皇が優遇されたが、三条天皇も一条天皇の次に即位している。

後ろに自分の孫である親王が二人も控えていたのだから、兼家にとって花山天皇は、どこまでも邪魔だったのだろう。

かなりややこしいので、兼家・道長周りの家系図をつくってみた。

兼家も道長も娘を次々と後宮に送り込んだ。こうして兼家一門は栄華を極めるのだ
兼家も道長も娘を次々と後宮に送り込んだ。こうして兼家一門は栄華を極めるのだ

「後ろ盾」がすべてだった時代

このように、どんなに有力な外戚でも、「長生きか短命か」で天皇の進退さえ決まってしまう時代。自分の娘から天皇が生まれれば出世できるが、油断すればすぐにその座から転がり落ちる。数代ののちには天と地ほどの差になるのである。

のちに「武士の棟梁として名をはせる源氏」も、臣籍降下された親王が時を経て「後ろ盾」もなく無位無官となり、貴族ではなくなった果てに誕生した。

紫式部と藤原道長は同じ藤原氏北家出身だが、そうした積み重ねで、大河で描かれる時代には大きく差が開いてしまったのだ。

ただ、どんなに立派な家に生まれても自由がなく、ほとんど「子を産む道具」としてしか扱われなかった道長の娘たちと、身分低くても自らの才能を生かし、女房として活躍した紫式部。一体どちらが幸せなのだろう。

たとえば令和になっても、後継ぎを産むことを期待される女性はいなくなったわけではない。現代のわたしたちは、愛する人が相手ならともかく、「家」のために、そのような人生を選びたいだろうか?

そう考えると「しあわせ」とは「自立」「自由」が欠かせないものなのではないか、と思うのだ。

(文・イラスト / 陽菜ひよ子)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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