【光る君へ】紫式部と清少納言、どちらが偉い?どちらが幸せだった?(家系図/相関図)
年始からはじまった『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部と、平安の世に藤原氏全盛を築いたとされる藤原道長とのラブストーリー。しかし、紫式部といえば、道長より先に浮かぶ名前は、『枕草子』の作者・清少納言ではないだろうか。
物語と随筆(エッセイ)、ジャンルは違えど「永遠のライバル」ともいえる紫式部と清少納言。気になる2人に関して、疑問点を考察してみることにした。
◆紫式部と清少納言、なんでこんな名前なの?
2人とも、別の皇后に仕えた女官だった
そもそも、平安時代に小説家やエッセイストはいなかった。紫式部も清少納言も、普段は「女房」という職に就いていたのだ。今でいう「女房」、つまり「妻」や「奥さん」のことではない。当時の女房とは、高貴な人の身の回りの世話をする女性のことを指した。
清少納言は、一条天皇の皇后・藤原定子(ていし/さだこ・977-1001)の女房で、紫式部は、同じく一条天皇の中宮・藤原彰子(しょうし/あきこ・988-1074)の女房。才気煥発な二人は、若き后妃の家庭教師的な役割だったと伝わる。
当時は、天皇に使える女房(女官(にょかん))とそれ以外の貴人に使える女房とでは明確に区別されていた。天皇に使える女官は本名を公にするが、それ以外の女房は通称(女房名)を用いるのが当時の習わしだったのだ。
なので、「紫式部」も「清少納言」も通称。彼女らの本名は、残念ながら正確には伝わっていない。
官職名と家名から付けられることが多かった女房名
紫式部は、もともと藤(とう)式部と呼ばれていた。「藤」は彼女が「藤原氏」であることから来ている。「式部」は官職名だが、本人の官職ではなく、父親や夫などの身近な親族の官職を付けることが多かった。
紫式部の場合は、大河で岸谷五朗さん演じる父の藤原為時が「式部大丞」だったためだとされる。
てことは、現代ならば、お父さんが教頭先生の田中さんは、「田(でん)教頭」などと呼ばれるのだろうか。社長夫人の山田さんは「山社長」……一気に宮仕えが憂鬱になりそうである。
なぜ紫式部と呼ばれるようになったかは、「源氏物語」のメインヒロイン「紫の上」から来ているとする説が有力だ。
次に清少納言。勘違いされやすいが、正しくは「せい・しょうなごん」である。「清」は彼女が「清原氏」の生まれだから。
ただ清少納言の場合、身近な人物に少納言を勤めた人が見当たらないため、その理由には諸説ある。少納言職にあった人物と結婚していた、彼女の主人・定子が名付けた、など。
◆紫式部と清少納言、どちらが偉いの?
実は会ったことがなかった?紫式部と清少納言
この問いは、答えるのが非常に難しい。そもそも紫式部と清少納言の活躍した時期は若干ずれていて、意外にも彼女たちは顔を合わせたことはないとする説が有力である。
清少納言は966年生まれ、紫式部は970~978年頃の生まれだとされ、10歳前後清少納言のほうが年上である。
清少納言が定子に仕えたのは、993年頃から定子が亡くなる1000年頃まで。紫式部が彰子の女房だったのは1006年頃から1012~1014年頃まで(諸説あり)。宮仕えの時期も重なっていないのだ。
どちらの家柄が上だった?
呼び名のもととなった役職で比べてみると、紫式部の名のもとになった役職「式部大丞」(正六位)と清少納言の「少納言」(従五位)とでは、少納言のほうが上である。
しかしのちに紫式部の父・為時は正五位下まで出世するが、清少納言の父・清原元輔は従五位上。父親の地位は紫式部の勝ちだといえる(微妙な差ではあるが)。
なにより清少納言の清原氏が代々従五位の受領クラス(下級役人)の家柄なのに対して、紫式部の家系は、今は受領とはいえ、もとは今をときめく藤原道長一族と同じ藤原北家の流れをくむ家柄。
紫式部の曽祖父は中納言(従三位=公卿(国政の高官))となった藤原兼輔。その娘の桑子(そうし/くわこ:紫式部の祖父の姉妹)は、醍醐天皇に更衣(こうい※)として入内(じゅだい)し、章明(のりあきら)親王を産んだ。
もし章明親王が天皇になっていれば、紫式部の一族こそが、道長の一族に成り代わっていたかもしれないのだ。
(※更衣:天皇の衣替えを担当する女官。天皇の寝室に出入りすることから后妃となることもあった。地位は女御(にょうご)の下。『源氏物語』に登場する光源氏の母は「桐壺の更衣」である)
関係をわかりやすく家系図&相関図にしてみた(追記)。紫式部は藤原主流の北家の一員(左下)。清少納言は右下。
こちらは入内した桑子を入れた関係図。
◆紫式部と清少納言、どちらが幸せだった?
この問いは、古代の人々の個人的な幸福を論じるという意味で、正直不遜ではある。あくまでも私見ではあるが、二つの方向から推測することができる。
2人の境遇(半生)を比較
まずは客観的に、二人の境遇を比べてみよう。
紫式部の前半生は、それほど恵まれているとはいえない。結婚して女の子を産むも正妻ではなく、夫(※)は2年ほどで死去。しかし『源氏物語』の評判を伝え聞いた道長により中宮彰子の女房に抜擢。そこから彼女の人生は花開く。(※夫は佐々木蔵之介さん演じる藤原宣孝である)
彰子のもとでは、歌人として有名な和泉式部や赤染衛門、伊勢大輔などとともに、文学サロンがつくられた。才気あふれる女房仲間と切磋琢磨した日々は、さぞかし充実していたことだろう。
紫式部の生没年は不明だが、おそらく晩年まで宮仕えを続け、娘も彰子の女房として活躍したと伝わる。
紫式部の娘は、歌人・大弐三位(だいにのさんみ)としても知られるが、彼女は後冷泉天皇の乳母として従三位まで出世(大弐は夫の役職)。
乳母は天皇付の女官のため、彼女の本名は藤原賢子(かたいこ/けんし)であることがわかっている。(当時の社会的には、紫式部より娘のほうが出世したのだった)
一方、清少納言はどうか。最初の結婚で男子を産んで離婚、再婚して娘を産んだのちに皇后定子に出仕。しかし定子は24歳の若さで亡くなってしまう。清少納言は定子亡きあとに出仕を辞したとされる。
のちに定子の遺児の養育を依頼されて、再度宮仕えをしたという説もあるが、推測の域を出ないようである。
ここから、晩年の境遇は紫式部のほうが恵まれていたことは推察される。しかし、もうひとつ、二人の性格から幸福度を考えると、必ずしも紫式部のほうが幸せだったとはいいがたい気がするのだ。
資料から推測できる2人の性格から幸福度を考えてみる
近代において『枕草子』および筆者の清少納言への評価が非常に低い時代があったという。『枕草子』には「自慢話」が多く、「自分がいかに有能か」をひけらかす「自己顕示欲の強い、鼻持ちならない女」だとする研究者が多かったのだ。
清少納言は宮中のスターだったそうで、さまざまな公達(きんだち=公卿)との交流があったことを裏付ける資料も残されている。軽口を叩ける男友達も多く、現代でいえば「パリピ」な「イケイケ」な感じの女性だったのではないだろうか、と想像する。
主人である定子や天皇などが読む随筆に「自慢話」を書き連ねても許される「愛嬌」を持つ、いわゆる「愛され上手」な女性だったのではないか。
前向きで、どんなものの中にも「おもしろさ」を見つける天才・清少納言は、不遇とされた晩年も意外と楽しく過ごせたのかもしれない(と勝手に推測。学術的な裏付けはない)。
清少納言が紫式部をどう思っていたかは不明だが、紫式部の「清少納言評」はしっかりと伝わっている。
『紫式部日記』において、「清少納言は偉そうに漢文を書いているが、よく読めば間違っているし大したことはない。あんな人にこの先いいことなどあるはずがない」と酷評をしているのだ。
こうしてスター(清少納言)への羨望の炎を心にめらめらと燃やし、50帖もの長い長い『源氏物語』を書き上げた紫式部の中には、なにかこう「情念」いや「怨念」のようなものを感じる。
(源氏物語に登場する「六条御息所※」のような!(※光源氏を想うあまり、生霊となって源氏の周りの女性を取り殺してしまう女性))
『源氏物語』には、受領の娘である紫式部だからこそ書けた、さまざまな階級・立場の人々が登場する。紫式部はそうした人々をじっと観察し、時には怒りながらもそれを心に秘めて、『源氏物語』の世界に昇華した。
感受性が強く、いろいろと細かいことが気になってしまう紫式部は、今でいえば、やや「生きづらい人」だったのでは、とつい想像してしまうのだ。
現代でも、抱腹絶倒なエッセイを面白おかしく書けるエッセイストのほうが、社会の闇に切り込む純文学を粛々と書き続ける作家より、リア充で楽しく生きていそう気がしてしまう、のではないか。
とはいえ、人が心にどのような闇を抱えて生きているかは本人にしかわからない。想像の域を出ない話なのである。
(文・イラスト / 陽菜ひよ子)