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【深掘り「どうする家康」】竹千代を「殺せ」と指示した織田信秀は、優れた武将だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信秀を演じる藤岡弘、さん。(写真:2021 TIFF/アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、織田信秀が捕えた竹千代を「殺せ」と指示していた。今回は織田信長の父でもある信秀について、詳しく解説することにしたい。

 織田信秀は、永正8年(1511)に誕生した。信秀は清須城(愛知県清須市)に本拠を置く守護代家の一族で、その配下の清須三奉行の1人して活躍した。信秀が家督を継いだのは、大永6年(1526)4月から翌年6月までの間と考えられている。まだ十代半ばの若さだった。

 信秀は清須城の西にある、勝幡(愛知県稲沢市から愛西市にまたがる地域)に本拠を定めていた。同地は、水上交通における要衝の地として知られており、経済的に豊かな地域だった。

 天文年間に至ると、信秀は尾張国の清須三奉行から身を興し、やがて主家である守護代家を圧倒する。当時の織田家は混乱期にあり、岩倉城(愛知県岩倉市)の織田伊勢守と清須城の守護代家とが互いに尾張半国を支配し対抗する関係にあった。

 混乱に乗じて守護代配下の三奉行の力が強大化すると、信秀はその中から抜け出し、主家を凌ぐ勢力を持つようになった。つまり、信秀は一族間との激しい競争から勝ち抜いたのだ。

 信秀は勢力拡大のため、積極的に国外へ打って出た。三河の松平氏とはたびたび交戦し、天文9年(1540)には安祥城(愛知県安城市)を攻略。子の信広を城主とした。天文16年(1547)になると、信秀は松平広忠を降伏に追い込んだ。

 さらに、信秀は美濃の斎藤道三と交戦し、両勢力の尾張進出を食い止めた。天文13年(1544)、信秀は斎藤氏に敗北するが、のちに道三の娘濃姫と信長を婚姻させることで和睦した。

 天文18年(1549)3月、今川氏は信秀を討伐すべく、太原雪斎を大将として約1万の軍勢を編成し、織田方の手に落ちた西三河の安祥城に送った。

 城主の織田信広は奮戦し、その攻撃を一度は退けたが、今川氏は同年9月に再び出陣。安祥城へ織田家の家臣・平手政秀が援軍として向かったが、同城は同年11月に落とされた。

 天文20年(1551)3月3日、信秀は末森城で没した。葬儀は萬松寺(名古屋市中区)で行われ、僧侶300人が参列した壮大なものだったと伝わる(没年は、天文18年、同21年説もある)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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